10.終わりの足音
「襲撃を決行することになった」
レジスタンスへ足を踏み入れて早々にクラウスから伝えられた。
私は言葉に詰まった。
だって、私はまだ彼に抱かれていない。
「計画は最終段階だ。ヴォルフがあの娘を抱いたらしい。あの娘は疑いもせずあいつに夢中だとのことだ。監視のメンバーも同じことを言っているから間違いないだろう。大まかには計画できているが、この後屋敷へ忍び込むための計画を練り直さなければいけない」
言葉を失った私は、彷徨う視線をヴォルフへ向けた。素知らぬ顔でやや目を伏せた彼は何も言わない。
彼の報告が嘘だということは、私自身が一番よく知っている。
「そうか……。日程はどうするんだ」
「未定だ。屋敷が一番手薄になるところを狙いたいが、正直なところメンバーからの情報が今ひとつ心許ない。屋敷の警備が入れ替わる日が定期的にあることは知っているが、その日程がまだ分からないんだ。屋敷に潜り込ませたメンバーにも探らせているが、提供できる情報はあるか?」
確かに、私の屋敷の警備は常勤の者2人を除いて傭兵に頼んでいるため、契約期間ごとに数人まとめて入れ替わる日がある。入れ替わりのタイミングがきっと良いだろう。
「確か屋敷の執事長がそこは取り仕切っていたはずだ。日程に関してはそのあたりから情報を仕入れてこよう。少し待っていてくれ。時期はいつがいい?」
「そうだな、2週間は準備期間が欲しい。それ以降でちょうど良い日程があれば教えてくれ。可能なら今までの日程も調べてくれないか? こちらで入手している情報と照らし合わせよう」
「分かった。できる限り情報は信頼できるものの方が良いだろうからな」
クラウスは私の言葉に何も言わず、片方の唇の端を持ち上げてニヤリと笑った。そのまま片手をひょいと上げると奥へと消えていく。
気安いその様子に私は密かに安堵した。
ヴォルフへ再び目を向ける。彼は相変わらず素知らぬ顔のままだ。
彼の真意は分からない。
分からないものほど怖いものはない。しかし疑われるような言動も避けたい。
私は仮面の下でひっそりとため息をつき、その場を後にした。
執事長の部屋への侵入は簡単だった。今までも何度となく侵入を繰り返してきたからだ。父の予定を把握するには執事長の手帳を覗き見るのが一番手っ取り早い。
隠し通路の存在を知らない執事長は、出入り口の鍵さえきちんと掛けておけば問題ないと思っている。有能な彼は出入り口の鍵を掛け忘れるなんてことはない。私は彼の思い込みをうまく利用させてもらっているだけだ。
いつも通り、物音ひとつ立てずに侵入し、必要な情報だけ盗み見たら最初の状態へ戻す。
過去1年間と次回数回分の警備の入れ替え日を把握し、手持ちのノートに書き付けた。幸運なことに、次回は1ヶ月後、しかも常勤の者も代わるという。このタイミングが一番だろう。
ふと気付く。
「そっか、あと1ヶ月……」
私と彼とが、偽りでも恋人としていられるのは。
歪な繋がりでも、彼と繋がっていられるのは――。
心臓がぎしりと嫌な音を立てた。
身辺整理をしなければ。
不要な物を売り、お金を貯め、荷物を最低限にまとめ。この家とヴォルフへ、別れを告げる用意をするのだ。
私は重苦しいため息ごと、そっとノートを閉じた。
次にレジスタンスへ顔を出した時に、必要な情報を書き付けたメモをクラウスへ渡した。
クラウスは「確認する」と一言だけ残して、受け取ったメモを持って一度店の奥へと姿を消した。
私は待っている間、壁に寄りかかって仮面の下から店の賑わう様子をぼんやりと眺めていた。この店に客として来る人間は、レジスタンスとして活動している一部を除いて大部分が何も知らない一般人だ。彼らは楽しそうに酒を飲み、互いに料理を突きながら笑い合って話し込んでいる。その光景はどこか遠くで起こっていることを俯瞰して見ているような、現実離れした感覚があった。
いいな、という気持ちが無いわけではない。私にはあんなふうに楽しく食事のできる仲の人間はいない。ただでさえ家での食事があんな様子で、とても楽しめるような場所ではないのだ。喫茶店でヴォルフと語り合うこともあるが、あれだって偽りの関係だ。
どこまで行っても、私は孤独だ。でももうその寂しさにはすっかり慣れきってしまった。今更嘆いても仕方がないことなのだと分かっていても、心のどこか深いところをぽっかりと空虚なものが占めている。
やや薄暗い店内を照らす壁のランプをぼんやりと眺めた。
「ルイ」
不意に声をかけられてびくりと体を揺らした。
扉から入ってきたらしいヴォルフが隣に立っている。匂い立つムスクが鼻腔をくすぐった。
「どうしたんだ? こんなところで突っ立って」
「ああ……今は、クラウスを待っているところだ」
「呼んでこようか?」
「いや、もう会った。返事待ちなんだ」
そうか、と言ってヴォルフは黙り込んだ。彼は隣に立ったまま動かない。私はちら、と隣を見上げてすぐに視線を外した。動く気のなさそうなヴォルフの香りがまた鼻をくすぐって、私はしきりに仮面を触って位置を直した。
「あー……ルイ、」
「な、なんだ?」
急に話しかけられて一瞬声が裏返った。かーっと顔が熱くなる。
「いや、その……た、体調は、どうだ」
「体調? 別に、普通だよ」
なぜそんな質問などしてきたのだろうか。
怪訝に思い彼を一瞥すると、あちらも居心地が悪そうだった。
「そっちこそ、体調はどうなんだ」
「いや、俺も……普通だ」
そして会話は途切れた。
何なんだ。どうして彼はずっとここにいるのだ。
ぐるぐると考えながら立ち尽くすがよく分からない。
沈黙が重いが、何か話題が思いつくわけでもない。下手に話しかけてボロが出ても困る。
二人して押し黙っていると、クラウスが戻ってくるのが見えた。彼は軽く左手を挙げて、私に合図をした。
「すまない、待たせたな。確認が取れた」
私はほっと息をついた。
「良かった。情報は使えそうか?」
「ああ。こっちで持っている情報とも合致していそうだ。この情報を元にまた計画を練る。助かった」
「また計画について決まったら教えてくれるとこちらも助かる」
そんな話をしているうちに、ヴォルフはクラウスと入れ替わるようにして店の奥へと消えていった。
一体、何だったのだろうか。
彼なりに協力者に歩み寄ろうとしていたのか。
いくら考えても答えは思い浮かびそうになかった。
* * * * *
そろそろだとは思っていた。
いつも通り、待ち合わせをしてよく使う喫茶店に入り、バラの香りがつけられた温かい紅茶を注文した。ヴォルフはブラックコーヒーを頼んで飲んでいた。いつも優雅にコーヒーを嗜む彼が、珍しくカチャリと音を立ててコーヒーカップをソーサーに置いた。
「ルー、もし君が良ければなんだけど」
躊躇うように瞳を揺らし、彼が言った。
「来週、一緒に夜を過ごせないかな……君と朝まで過ごしたいんだ」
私は束の間息を呑んだ。ヴォルフはいつもの作り笑顔を浮かべていた。蕩けるような笑顔でこんなことを言われたら、どんな女性も虜になってしまうだろう。
テーブルの下、見えない場所でそっと左手の指先を右手で握り込んだ。唇の端を持ち上げ、弓のように形を作る。
これで、彼との関係は終わりになる。心臓を棘で刺されているように胸が痛んだ。でも、まさかこんな日に言い出されるとは。私は泣き出したい気分になった。
「ええ、もちろんよ。どこで過ごすの?」
「ああ……君が普段どんな部屋で過ごしているか、興味があるんだ……君の部屋でも?」
私は精一杯の虚勢を張り、ふふ、と笑った。
「悪い人。こっそり女性の部屋に入り込もうって言うのね? いいわ、楽しそう」
「それは良かった」
ヴォルフは安心したようにほっと息をついた。そのままじっと私を見る。突然黙り込んだ彼に、やや居心地の悪さを感じる。
彼のアメジストの瞳はもう、初めて見た時のような突き刺さる光を宿してはいなかった。脳裏に蘇るのは、あの日見た紫のアネモネの色だ。風に揺れ、穏やかに花弁を震わせる、鮮やかな紫色。
私は居心地の悪さを忘れ、その瞳をじっと見返した。
ヴォルフは胸元に手を入れ、何かを取り出した。そしてこちらへ手を差し伸べる。
「左手を」
魅入られるように、言われた通り左手を差し出す。彼は恭しく左手で私の手を掬い上げると、ふにゃりと笑った。
私の頬にさっと紅が差す。
私が、ずっと見たかった笑顔だった。警戒心などほぼ無くしたような、無邪気な笑顔。普段は歳上らしく落ち着いて振る舞っている彼が見せるその無邪気な笑顔は、存外とても可愛らしく見えて心臓がきゅっと甘く痺れた。
「え?」
気がついたら、薬指に何かがはめられている。
きらりと光るそれは、小さなアメジストが輝く銀色の指輪だった。リング部分は細めのデザインで、アメジストがはめ込まれている台座の周りには繊細な細工が施されている。明かりに照らされたアメジストは一際透き通った光を反射していた。
とろけるように甘いアメジストの瞳が、私を見つめている。
「誕生日おめでとう。ルイーゼ」
喜びの炎が突然私の胸を焦がし、意図せず瞳から涙がこぼれ落ちた。
「あ……」
「え⁉︎ ……もしかして、気に入らなかったか?」
慌てふためくヴォルフに、私は涙に濡れた笑顔を向けた。
言葉にならない気持ちが込み上げた。まさか、こんな。
「違うの。本当に、嬉しくて……」
指輪を私の指にはめてくれた彼の右手は行き場をなくして宙を漂っていた。私は指輪をした左手の指を、その右手の指に絡めた。
わずかに震えていたその手は、温かかった。絡めあった指からは徐々に震えが消えていった。
彼の左手が私の涙を拭い、そのまま頬に添えられる。私は目を閉じ、その手にそっと頬を擦り寄せた。
「私の誕生日を、覚えてくれていたのね」
「もちろんだよ。君から聞いたことは全部覚えてる。今日で、17歳になったのか」
「ええ」
また宝物が増えてしまった。こんなに誕生日を嬉しいと思えたのは久々だった。
伯爵家に引き取られてからは私の誕生日を祝ってくれる人などいなかった。誕生日が来るたびに、母様がいた頃の楽しい記憶が蘇って胸が締め付けられるような苦しみを感じていた。もう二度と戻らない日を想って私はいつも俯いていた。
「こんなに素敵なものをありがとう。大事にするわ」
心からの笑顔を向けた。
たとえ偽りだったとしても嬉しかった。
「……喜んでもらえてよかった。じゃあ、来週楽しみにしているからね」
「私もよ」
胸に刺し込んだ凍てつく氷のような不安には見て見ぬ振りをして、私は薄く微笑んだ。
彼はうっとりするような笑顔で、詳しい日程を私に伝えた。
――彼の手を離すまで、あと6日。




