秘密2
「さあ、ギルバート、ルーシェは終わったわ、あなたもどうぞ」
「あ、ああ、はい」
はっと我に返り、止まっていた手を再び動かす。
盥から出たルーシェは、髪を拭いてもらっているところだった。それが、服もまだ着ていないのに、母上を振り切って駆け寄ってくる。
「ギル様、なに見てたの? ルーシェも見たい!」
「駄目だ!」
思わず怒鳴った。
しまった、と思った時には遅かった。ルーシェが足を止め、むうっと下唇を突き出す。見る間に目元に涙が盛り上がってきた。
「いや、ルーシェ、その、今は駄目だっていうだけで、……え? あれ?」
ルーシェの体に――股間に――、付いているはずのものが付いていない。何度も目を瞬いてよくよく見るが、……やはり男の証が付いていない。
ルーシェが女? いや、竜殺しに女は生まれない。そういうもののはずだ。
では、ルーシェは竜殺しではない? それこそ、そんなはずがなかった。少ないながらも竜殺しの証たる鱗が肌に表れているし、最近では人の幼児ではあり得ない怪力を発揮しはじめている。
「ルーシェ、服を着てしまいましょう」
母上が追いかけてきたが、捕まる前に、ルーシェは俺の足に飛びついた。
「やだぁー! お外見るぅ!」
「ああ、ルーシェ、洗ったばかりなのに、また汚して! しかたないわ、もう一度洗いますよ! ギルバート、ルーシェを連れて来てちょうだい」
「いや、でも」
男だと思っていたから無造作に扱っていたわけで、女で、しかも裸だと意識したら、触っていいものかどうか、急にわからなくなった。
「やだぁー! 頭だって、洗ったもん!」
ぎゅうううと、あらんかぎりの力で足にしがみつき、駄々をこねはじめる。こうなると、母上の力ではどうにもできないだろう。
俺は恐る恐る、ルーシェの両脇に手を入れて、ひきはがした。やだやだと宙を蹴る足の間には、どう見ても何も付いていない。
……俺はどこを凝視しているんだ。
はたと気付いて、目をそらす。
幼児といえど女だと思うと抱き寄せるのが躊躇われて、両腕を伸ばしてぶら下げたまま――やだー! 見せて! と手足をばたばたしている――、盥に連れて行って、湯の中に漬け込んだ。
それにもかまわず、ばしゃんばしゃんと湯をはね散らかすので、め、と叱りつける。
「裸だと風邪をひくだろ。きれいに洗って、汚れてない服を着なきゃ駄目だ。
……外は、後でな。今は駄目だけど、後で連れて行ってやるから。ほら、だから、いいかげんにいい子にしろ、ルーシェ」
「いー子なんて、もうやだ! やだ! あとでって、そればーっかり! ルーシェ、もう、いっぱいいー子にしてたもん! なのに、おとーさん、まだ遊んでくれないじゃん! 帰ってきたら、遊んでくれるって言ってたのに! なんで寝ちゃったの!? 約束したのに! なんで起こしちゃいけないって言うの!? おとーさん、いつもいつだって起こしていいって言ってるもん! なのに、みんな、ダメダメダメダメばーっかり! もうやだーーっ!!」
うわああああー! と泣きだす。思わず言葉を失い、母と目を見合わせた。
全身で怒りと悲しみを訴える姿にたまらなくなって、小さな体を抱き寄せる。
「おとーさーん! おとーさーん! 遊んでー! 遊んでくんなきゃやだあー!」
今にも走って外に出ていきそうな体を押さえ込む。振り回される小さな手足に何度も殴られたが、それよりも、その泣き声に胸が潰れそうだった。
どう慰めればいいのかわからない。こんなに父親を呼んでいるのに、その父親はもう二度と応えてくれない。
ルーシェの母は、早くに亡くなっている。ルーシェにはケイしかいない。――いなかったのに。
俺はルーシェを、ただただ抱きしめているしかできなかった。
小一時間はわめいていただろうか。ルーシェは声を嗄らしてしゃくりあげるばかりになって、今は自分の指をくわえてしゃぶりながら、ぼんやりしている。
そのうち、とろりと目をつぶった。時折スンスン鼻をすすっているが、反射的なもので、もう意識はないようだ。
俺はそれでもしばらくじっとしていた。肌が触れあっているところがじっとりしている。返り血なのか、汗なのか、涙なのかもわからない。
母上は盥に布をひたして絞り、俺がそうっとさし出したルーシェの体を拭った。
新しい服を着せたが、矢を射るためだけの何もない部屋に、ルーシェを寝かせる場所はない。俺の新しい上着を敷いて、その中に横たえた。
俺はすっかりぬるくなってしまった盥に入って、手早く汚れを落としていった。あっという間に、水が赤く染まっていく。
母上が後ろから桶で水を注いでくれる。それに合わせて頭を洗い、流し終わった後に髪を梳いて絞っていると、母上が話しかけてきた。
「ルーシェのことは、そろそろあなたに話そうと相談していたところだったの。ほんの一昨日にも、ケイとそんな話をしていて……。話を聞いてもらえるかしら?」
「うん、聞きたい」
盥から出て、衣服を身に着けた。と言っても、上着はルーシェに譲ったから、上はシャツだけだ。母上の前に座る。
水の入ったカップを渡されて、一口飲んでみたら猛烈に喉の渇きを覚えて、喉を鳴らして飲んだ。
空のカップを床に置くと、母上は話しはじめた。
「ルーシェが生まれた時に、ケイから相談を受けたの。女に生まれたルーシェを手元で育てたい、手を貸してもらえないか、と。これがヴァユに知られたら、いいえ、どこの誰に知られても、ルーシェは奪われてしまう。……それは、わかる?」
「ルーシェなら、竜殺しの子をたくさん産めるかもしれないから?」
竜の生き血――不思議なことに、死んだ竜の血には触れても何も起きない――は猛毒だ。それに触れた人に、竜化という激烈な変化を引き起こす。
それがほんの少量でも、触れたら最後だ。メキメキと音をたてて変容していき――体の一部が竜化しては、また人の形に戻るのを繰り返し――、それに耐えられなかった者は命を落とし、耐えきった者は半竜半人となって、竜殺しと呼ばれるようになった。
そうして変化した竜殺しの血に毒性はないが、人の血と混ぜ合わせるのには、やはり無理があるらしい。竜殺しの子は、なかなか生まれない。ほとんどが流産してしまう。
ならば、何人もの妻を娶ればたくさんの子が得られるだろうという話になるのだが、どうもそのへんは竜の性質を受け継いでいるらしく、番として選ぶ女は一度に一人。それどころか、その女が死んでしまったとしても、なかなか次の女を選ばない。
我がエヴァーリにも当初は三人の竜殺しがいたというが、子を得られずに一家門が途絶えてしまった。
今の世界で、竜殺しは防衛の要だ。人と竜殺しには圧倒的な身体能力の差があり、竜殺しの減少は領国の弱体化に繋がる。竜殺しを増やせる方法があるのなら、誰もが先を争って飛びつくだろう。
「それだけではないわ。もしかしたら、人の男との間にさえ、竜殺しを産むかもしれない。――たとえ、本当は違うとしても。多くの人がそう考えるだろうというのが問題なの。
ルーシェが女だということが誰かに知られれば、ルーシェは攫われ、竜殺しを産ませるための道具にされるでしょう。逆らえないように、どんなことをされるかもわからない。それだけは避けたかったの。
ルーシェを見ていてわかると思うけれど、幼いうちは、なんでも思ったことが口から出てしまうでしょう? だからあなたにも、分別がつくまでは話せなかった。
ケイは」
母上は急に口ごもった。俺を見ながら、考え込むように何度か瞬きをし、ルーシェへ視線をやった。




