異獣狩り11
「サミュエル、犬を放ってくれ」
彼は蝋引きの布の包みを取り出し、口笛を吹いて犬を呼び集めた。包みの中には、探索で採取した異獣の毛が入っている。それを犬達に嗅がせる。
地面をフンフンと嗅ぎ、鼻面を上げて右や左を向いて風の中の匂いを捉え、それぞれ思い思いに散っていく。
先ほど作ってもらった案山子は、尾根近くに並ぶ三本の木のうちの真ん中に吊した。腕の片方に長い蔓を縛り付け、サミュエルを護衛して隠れているウルム卿に端を持たせる予定だ。
動いているものは反射的に目で追うものだ。目の悪い猪の異獣でも、揺れていれば存在に気付きやすくなる。
さらにそこから俺の匂いがすれば、めがけて突進するだろう。というか、してほしい。そうすれば設定したルートを通ることになり、配置した岩や倒木で走る速度を削れるし、俺たちが隠れている場所も嗅ぎ当てられにくくなる。戦も狩りも、相手をいかに罠にはめて、こちらが安全な状態で仕留めるかが重要なのだ。
先にウルム卿がサミュエルを抱えて木の枝に飛び乗り、いくつかの木を経由して――臭いで場所を特定されないように――身を潜めた。
合図を送って、案山子に縛り付けた蔓を引っ張らせてみる。ああ、うん、いい感じだ。
よし、準備はできた。
一度尾根に登って反対側に下り、サミュエル達から見えないのを確かめて、ルーシェを下ろしてトイレを済まさせた。少し運動もさせてから背負いなおす。
そこから助走を付けて木に駆け上がり、枝につかまった。ウルム卿がやったのと同じように飛び移っていって、待機する枝に辿り着く。ウルム卿達とは反対側で、川岸まで見通せる位置だ。
「さて、ルーシェ、狩りを始めるぞ」
「はい!」
「狩りの時に大事なのは?」
「勝手に動かない、大きな声を出さない、お話があるときはコソコソ話す」
「そうだ。よく覚えていたな」
後ろ手に撫でると、額を俺の後ろ頭にこすりつけてくる。
ここからが長いんだよな。狩りの大半は、「獲物の痕跡を探す」と「狩りのポイントで待ち受ける」に費やされる。特にこの待つ時間が長い。寒かろうが雨が降ろうが、体力を温存し、集中力を途切れさせないようにしなければならない。
とりあえず携帯食料を食べ、水を口に含んだ。
風がそよそよと吹いている。川からの風だ。風下なのはありがたい。
気配を消していると、すぐそばに鳥がやってきて、気付かずに飛び立っていく。リスなんか俺の体を登ってルーシェの頭に駆け上がったらしく、くすぐったさに身をよじったルーシェの動きで、あわてて逃げていった。
地面では、獣道をやってきた獣が止まって、来た道を戻っていくのが見受けられた。岩や倒木を置いて様子が変わっているし、俺たちの匂いも残っているんだろう。案山子もあるしな。
もちろん、かまわず横切っていくものもいる。一度、シカの群れが走り抜けていった。
――そして。犬の鳴き声が聞こえてきた。
「ルーシェ」
一応声をかけて、わしゃっと頭を撫でる。
「来た?」
「ああ。口を閉じてじっとしてろよ」
「ん!」
水をかき乱す音が大きくなる。木々の途切れたところから鼻面が見えた。大きな牙。やぶにらみの小さな目。開けた明るい場所を巨体がさえぎっていった。現れるほどに日が陰っていくようにすら感じる。でかい。
川岸を走っていた犬達が、こちらへと方向転換して駆け上ってきた。異獣の殺気立った目がギョロリと犬を追い、川から陸へと巨体を揚げる。
グォオオオオオッ。
すさまじい雄叫びに、大量の鳥が飛び立った。犬達も振り返る。
ズシン、ズシン、と足を踏み出すたびに、ゴオオオ、ウオオオオ、と狂乱したような声をあげているが、歩みは遅い。
異獣は想定通りに進んできた。もとよりあの巨体だ、ある程度のスピードで突進して木々をなぎ倒すのでなければ、通れる場所は限られる。
設置した巨石を避け、不器用に方向転換をしている。その足下には、倒木。踏んで倒木が割れ、体勢を崩した瞬間。
ギイイイイイッ。
異獣が絶叫した。歩みが止まり、小山のような体が波打つように息をしている。それに違和感を覚える。
……あれはもしかして、痛がっている、のか? 雄叫びなどではなく?
ああ、そうか。ひょっとしたら、あの巨体を骨格が支えきれていないのかもしれない。水の中なら体が浮くが、出てしまえばそうはいかない。痛いのは、膝か股関節あたりか。もしかしたら背骨も……。
止まってしまった異獣に、犬達が戻って、ちょろちょろ走り回っては吠え立てる。そちらへ首を伸ばし噛みつこうとするが、それだけで届くわけがない。
憑かれたように犬を目で追う異獣が、下から突き上げるように大きく頭を振り上げた。その反動で勢いをつけ、足を踏み出す。
イィイイイイィイイー!
最早悲鳴だ。また頭を下げ、同じように足と一緒に突き上げようとして、よたよたとたたらを踏んだ。悲鳴とともに濁ったよだれがまき散らされる。
哀れだった。
俺は木から飛び降り、口笛を吹いて犬達を呼び寄せた。一目散に駆けてくるのもいるが、ほとんどがどこから呼ばれたかわからずにウロウロしだす。ヒュイ、ヒュイ、ヒュイと立て続けに呼び続けると、先に到着した仲間を見て、ようやく全部がやってきた。
「待て」
異獣がろくに動けないなら、犬達に追い込んでもらう必要もない。これ以上そばでウロチョロさせて、異獣の体の下敷きになってしまったらかわいそうだ。
思い思いに腰を下ろした犬達を置いて、坂を下った。下るほどにスピードを上げる。
俺を認識した異獣がガチガチと牙を鳴らし、毛を逆立てた。体が一回り大きくなったように見える。痛みを忘れたのか地をガリガリと蹴りはじめて。
その目前で、右手の大木に駆け上った。横になった視界の中、異獣と目の高さが同じになる。そこから三歩、完全に異獣を見下ろし、まだ上に登れるエネルギーを使って幹を蹴った。異獣に向かって飛ぶ。
「でやぁああああああっ!!」
異獣のこめかみに両足をそろえて叩き込んだ。
ギッと異獣が叫んで、傾きかけた体が止まる。
チッ。蹴る力が足りなかったか。
とんぼを切って異獣から距離を取って地面に下りた。さっと目を走らせてもっと高い木を探すが、そういうのはここを登った尾根の近くにしかない。まさにさっきまで陣取っていた木だ。でも、異獣はこれ以上坂を登れない。ここでどうにかするしかないから下りてきたのだ。
どうやって奴をひっくり返すか、束の間思案する。それとも、熊の異獣の時のように背に取り付いて脊椎を狙うか? いや、やはり採用したくない。この大きさでは何度も突き込まないと骨を破壊できないし、痛みに暴れるはずだ。俺だけだったら多少吹っ飛ばされてもどうということはないが、今はルーシェを背負っている。ルーシェを危険にさらしたくない。……とりあえず、もう一発蹴ってみるか。そのうち、脚のどれかがいかれて、立っていられなくなるだろ。
そう決めた瞬間、目の前でふうっと異獣の体が揺らいで、ゆっくりと向こう側に倒れはじめた。ぶつかった周囲の木が耐えきれずにメキメキメキと折れていく。
異獣は何もかもをなぎ倒し、ズドオンという地響きとともにひっくり返った。四つ足が地から浮く。
今だ。
異獣の頭の方に走り、槍を構えて首の付け根に突っ込んだ。さすがに見たこともないほど大きいだけある。毛皮と筋肉が厚く、抵抗がすごい。だが、渾身の力で深く深く突き込む。
「ええええぇっいっ!!」
槍の石突きを梃子の要領で持ち上げた。毛皮と筋肉が硬いおかげで、そこが支点となって、奥の比較的柔らかい部分――肉と血管――を刃が切り裂く。ブツブツッと断ち切る手応えを感じ、槍を引き抜いた。血がものすごい勢いで噴き出てくる。跳び退って間一髪で血飛沫を避けた。
四つの脚が宙を掻く。体を左右に転がし、立ち上がろうとしているようだったが、背側は倒れた木に阻まれ、足側は上りの斜面になっていて踏ん張れない。
ゴフゴフと血の泡を口から吹いているのは、己の血が気管に入り込んでいるからだ。ろくに息ができず苦しいはず。ひと思いに殺してやりたかったが、暴れる異獣に近づくことはできなかった。
脚の動きが弱々しくなり、やがて止まった。それからもう少し待ち、鼻面のほうにまわって、目玉を槍先でつついてみた。反応はない。完全に死んだようだ。
「ルーシェ、終わったぞ。痛いところはないか?」
「ないよ!」
「血がかからなかったか?」
「うん、大丈夫!」
「もしどこかに付いているのを見つけても、舐めちゃ駄目だぞ。毒だからな」
「わかった」
サミュエルとウルム卿が隠れているあたりを見上げるが、おそらく位置的にここは見えない。声も通りにくそうだ。
とりあえず姿を見せれば察してくれるだろう。
俺はゆるやかな坂道をのんびりと登っていった。




