06.
その後もミエルはいつも通りだった。まるで動揺しているのがニュイだけのようだ。
ニュイは、彼に声をかけられると間が悪ければぴくりと肩を跳ねさせてしまうし、ふと彼の唇に焦点があってはあの瞬間を思い出してしまい、頬の熱さをおさめるため視線を逸らすことが時折あった。
ささいな挙動の変化に、ミエルは指摘してこない。ただ笑みを湛えるだけだ。
余裕にみえる彼の様子に、ニュイは不服を覚える。それが数日後、食後のお茶のときに零れた。
「……あたしの方が、ずっと長く生きてるのに」
「けど、恋愛経験はないでしょ?」
すかさず指摘が返った。出会うよりも前のことなど知りようがないはずなのに、ミエルは断定をしていた。見てきた訳でもないだろうという反論はニュイの口からでなかった。事実だからだ。
他者を性愛込みで愛したことがない。師でもある母親は少なくとも自分を愛してくれていただろうが、それ以外の愛を受けたことはない。魔女という存在ゆえに、過去を振り返っても他者から忌避されてきた記憶だけだった。
魔女は魔術への好奇心の塊だ。魔術のなかには感情を左右するものもあるため、魔女によっては恋多き者もおり、嫉妬深さにより相手の出方によっては呪いをふりまく。そういう逸話はいくらでも溢れているが、ニュイには忌避される相手に愛情を求めること自体不毛な行為に思えるのだ。
ミエルに出会うまで、魔女を恐れない人間をみたことがなかった。
彼女の他者との関わりを最初から諦めている態度で、ミエルはそれを察していた。自分以外は魔女ではない人間だからと、無関心でいる。それは彼女なりの処世術だろう。
幼い頃、物陰に隠れて母親の仕事を見学していたが、人間はみな魔女の母親を恐れた。同じ人型の生物であるのに不思議で問うと、母親から、違う存在だと区別するように教えられた。姿かたちが似ていても、魔女の血がある以上恐れられるのだと、ニュイは納得した。その教えは、娘の心が傷付かないようにという親心でもあり、自身の経験による達観でもあろう。
彼女の母親と彼女の認識は正しい。人間は違うと判断したものを、理解の及ばない部分を持つものを恐れる性質がある。正しくはあるが、姿かたちが似ていれば愛し合えもするのだ。生殖が可能ならなおのこと。
魔女の血は、存在の名の通り基本的に女性しか発現しない力だ。命を繋ぐには人間の存在もいる。魔女の子どもでも、男性は魔女の血に目覚める確率が著しく低い。魔女の腹から生まれただけで魔女にはならないのだ。生物学的見解だと、魔女というのは種族ではなく人間の突然変異体であるという説もある。膨大な魔力にあわせて器である身体が長命になるのだと。
ミエルは知識として知っているそれを、彼女が関心をもたない限りは教えない。知識を得ての視野の拡がりで自分を受け入れられたい訳ではない。ただ自分の愛だけで判断されたい。
特定の誰かを愛することにおいては、ミエルの方がよほど長けている。
「僕が怖くなった?」
性愛の対象としてみられることに恐怖を覚えるかと、問われた。真っ向から見据えると、彼は微笑みを刷いていた。透き通った空色の瞳に情欲の炎が灯ることがあると、ニュイは知った。今も瞳の奥に潜んでいるかもしれないそれは恐れ拒絶する対象なのか。
ニュイは静かに首を横に振った。
「いいえ、ミエルだもの」
対応が解らず動揺こそするが、彼から向けられるそれに嫌悪感も恐怖心もない。相手が彼だからだと、ニュイでもさすがに解る。
彼女の答えに、ミエルは蕩けるような笑みになった。
「ニュイ、僕の顔好きだもんね」
確信があったが、言質をとってミエルは満足げだ。ニュイは一度停止し、指摘された内容を吟味する。
「そうね」
出会った頃から整った顔立ちの少年だった。蜂蜜を溶かしたような髪よりもずっと甘やかな表情が自分に向けられるのに飽いたことはない。青年といえるだけ成長した今も、毎日みる顔だが、造作の整い具合を眺めることがある。
「僕の目の色も好きでしょ」
「ええ」
晴れ渡った空を見上げたときにまず浮かぶのは彼の瞳だ。素材などで鉱石も扱うが、青い石を目にすると彼の瞳の青と比較してしまう。彼の瞳の色に相当する青は、なかなか存在しない。
「僕の声も好きだよね」
「そうだわ」
出会ったときから声変わりしたというのに、ずっと耳に心地よく響くのは変わらない。彼の声で目覚める朝は、自力で起きたときより意識が覚醒しやすい。調理中に彼はよく歌を口ずさむが、それは自分が彼の歌声を聴くのが好きだと知っているからだ。最初は待っている間退屈だと零したら、なら君のために歌おうといってくれたのが始まりだったと思う。音楽が悪くないと知ったのは彼のおかげだ。
「僕の作る料理も好きだよね」
「そうよ」
自身で作るよりずっと自分好みの味でできあがる料理や菓子を好ましく思わない訳がない。ニュイには彼の料理が世界で一番美味しい。
「僕は初めて見たときからニュイが好きだけど、最初からニュイの好みの容姿でよかったよ」
初対面以降、足繁く訪ねてくるようになった子どもを邪険にできなかった理由を今さら気付かされた。ニュイは昔から、彼の綺麗な顔に弱かったのだ。
自身の容姿が彼女にとって好ましいものであるから、ミエルはそれにつけ入ったのだ。出会った瞬間から、彼女以外いらなかった。成長につれてその愛情に性愛が混じっても、ミエルはただ自分の愛を信じられるように彼女を愛で続けた。
彼女が自分を好ましく感じることに何の疑念もない。それだけミエルから愛情を注がれるのが当たり前になっているのだ。
「僕はニュイの飼い主だからね。僕でないと駄目になるくらい愛してあげるよ」
そう野生を忘れた飼い猫のように。野良猫だったのが不思議になるほど警戒心を解いて、甘えればいい。彼女はそれが許された存在なのだから。
愛玩動物扱いされることにいつもなら不服を申し立てていた。だが、ニュイは気付いた。彼は恋人や夫婦など人間の枠での関係性を強要していないことに。彼は、愛し合えるのであればどんな関係の定義でも構わないのだろう。
人間の営みに合わせなくていいというのは、楽だ。自分が自由でいていいように甘やかされいるのだ。
少し意識すると、彼の注ぐ愛情に気付けるようになった。
じわりと頬が熱をもつ。
「ミエルは……、あたしが何もしなくて、いいの?」
彼はニュイに何かを強く求めたことがない。健康管理などはされているが、それはあくまでニュイのためのものだ。誕生日の贈り物に悩むことになったのも、彼が日頃から求めてこないことが原因のひとつといえる。恋情を抱える相手にはもっと何かしらの主張があるものではないのだろうか。
動揺をみせているのが自分ばかりという現状に湧いた疑問だった。
すると、空色の瞳が違う輝きをみせた。
「……僕に求められたいの?」
炎が揺らめくような輝きに、背筋がぞくりとした。恐れではなく、彼の情欲にあてられたからだ。
彼が淡白でも冷静でもなかったことを思い知った。ただ熱情を瞳の奥に潜めていただけだと、眼差しに射すくめられて体感した。
まただ。吐息が触れる距離だったとき同様、ニュイは呼吸の仕方を忘れてしまった。
これでは返事がきけないと、ミエルはひとつ瞬きをして、瞳の奥に熱情をしまう。
「……っは、我慢、してたのね」
おかげで呼吸を思い出したニュイは、誤認を認め訂正した。
多感な年頃を過ぎ、すでに成人していることを踏まえると、人間にとってはなかなかに長い時間耐えていたことにならないか。求められていない訳ではないことはよく理解した。彼が忍耐強いことも。
「我慢……というよりは、僕だけじゃ意味がないんだ。僕だってニュイに求められたい」
ミエルの独占欲はそれだけ強い。許容による行為ではなく、彼女自身の要求での行為がいいのだ。身体だけ手に入れても足りない、心ごとすべてを望んでいる。
「だから、ニュイがキスしたくなったら言ってね」
いつでもいいから教えるようにと言い含められて、ニュイは目を剥く。
「そ、そういう話じゃ……」
「そういう話でしょ」
微笑みで即座に返され、ニュイは押し黙るしかなくなった。現状と彼の要求の確認は済んだのだから、あとは自身のだす答えのみとなる。たしかに、結論としては自分が要求するか拒否するかなので、判断基準は彼の提案が理にかなっている。
自己申告制にされ、ニュイはなんだか辱めを受けた気分になる。だが、これまでを思えば彼から過分に愛を囁かれていたので、答えが要求だった場合は自分からも意思表示するべきだろう。
喉を潤すはずの食後のお茶の時間だったのに、空になったマグカップのようにニュイの喉も乾いていた。声を荒げた訳でもないのに。
彼女の渇きを察し、ミエルはポットにあるおかわりをマグカップに注ぐ。話している間に冷めたから、彼女にはちょうどよいだろう。
「……ミエルは悪魔みたいだわ」
魔に魅入られた瞬間とはあのようではないかと、呼吸を忘れた状態を思い返す。思考のすべてを彼に占領された。魔力が勝っているため魔女のニュイは、悪魔の魔性に耐性があるが、魔力起因ではないミエルの魔性には耐性などなかった。
自分に選択権を与えているところもそうだ。拒みもできる提案のはずなのに、彼の手に落ちてくるよう誘われている気がする。それは、甘言を囁き魔に落とす悪魔と大差ないように思える。
「ニュイが僕でいっぱいになるなら悪魔でもいいね」
魔女でなくとも自分を愛するという彼は、いとも容易く人間の枠から外れても構わないと宣う。
ニュイは今度こそ喉を潤すために、マグカップに口を付けるのだった。