03.
夕方に差し掛かろうかという刻限になり、夜の森の関所から落ちかけの太陽にも似た髪の美丈夫がでてきた。関所で彼を待っていた男は、彼の歩みを止めないよう背後に追従する。
「食材を取りに戻る。だが、またすぐ帰る」
「は」
戻るといった方が本来彼の帰る家であることには言及せず、追従する男は首肯する。
「ジュスト、首尾は」
「手筈通りに。隣国の王は意気消沈となり、侵攻する計画は無に帰しました」
「はっ、下半身に直結しているような男だというのは聞いていたが、不能になっただけでそれとは」
目論み通りにゆきすぎて、嘲笑しか浮かばない。
「ナゼール様の采配により、この国の平和は守られています。陛下からの招致に一度くらいは応えられては」
「だって、森に侵略されたら彼女に迷惑だろう。どうせ恩賞か名誉だろう。そういうのが好きな父上を王都にやってるんだから、代わりに受け取ってもらえばいい」
自国の平和はついでだと、ロラン侯爵家当主は断言する。そして、王家から与えられる恩賞や名誉には毛ほどの興味も示さない。むしろ、何のために父親を領主代行で王都にやっていると、こちらに彼独自に道理の理解を求めてくる。
世間では領地思いの領主と評判の彼が、極端な男だと知っているのは従者であるジュスト以外にいない。
国境にあるロラン侯爵領ローダンセは、魔女の加護を受けているともっぱらの噂だ。ミエルが侯爵に就いてから定着したその噂は、的を得ているようであり外れている。
「自分の妻に薬を盛られただけだっていうのに、呪いと騒ぐなんて大袈裟だな」
ミエルは呆れた眼差しを隣国のある方向へ投げた。
以前から隣国が侵略の手始めにローダンセを狙っていた。その情報を得たミエルは、主導者を落とすのが得策と隣国の王が好色であることを利用して、彼の伴侶である王妃にある贈り物をした。ミエルがしたのはそれだけだ。だが、結果として嫉妬に狂った王妃が贈り物を使い、王を不能にした。きっと王妃は今頃使い物にならなくなった無様な男を前に高笑いしていることだろう。
贈り物は魔女の薬だった。一度飲むと精力が尽きる去勢効果のある。
今回の件はほんの一例にすぎず、ミエルは領地からでないまま周辺国を含む国の情勢を動かし、自国の平和に貢献している。あるときは天災の予兆をいち早く察知し作物の備蓄をして不作の地域へ支援し、またあるときは圧政を扇動しようとしていた官僚とその傀儡となった王族をそれぞれ政権関与できないよう没落へと追いやった。もちろん、統治能力のある別の王族を擁立させることも忘れずに。
内からも外からも争いの芽はすべて潰す。
王都や周辺国で不遇の扱いを受けていた優秀な人材を厚待遇で受け入れ、十二分な人員で領地運営をしている。天災の予兆に気付いたのは受け入れた学者のひとりで、民に負荷の大きい政策を強行しようとしている者がいると報せたのは王宮から迎え入れた文官だ。冷遇され追放ないし、自身から逃げてきたものたちは自身の声に耳を傾ける領主に感謝し、積極的にそれぞれの能力を活かせる方面で貢献してくれる。ミエルは、そんな彼らが休養を忘れて体調を壊さないよう、補佐する者を采配するだけでいい。それが彼らにとって良縁にも繋がることが多いので、ローダンセの地に根付いてゆく。
ミエルは領主教育を受ける課程で、情報の重要性に気付く聡い男だった。また人の適性や性格を見極める眼ももっているため、チェスの駒を動かすかのように自身の望む方向へ人を誘導するのだ。
この世でもっとも敵に回してはならないのは、呪いの力をもつ魔女ではない、この主だ。
傍らで彼の手腕をみてきた侍従のジュストは、とうに悟っている。
敵国の王が自身の身におきたことを魔女の呪いと騒いでいるのは、身に覚えがあるからだ。侵略するには夜の森が一番手近で攻めやすい地であったが、魔女がいるという懸念を配下が申告した際に、たかが老婆一人と鼻で笑ったのだ。王にとって魔女とは、噂だけが独り歩きしているだけの異様に長生きの老婆だった。その軽視が、ミエルの耳に届くとも知らず。
実際に脅威を体験しないと解らないのなら、体験させてあげよう。さも親切をするように微笑んでいたミエルの瞳がまったく笑っていなかったのを、ジュストはよく覚えている。
魔女の住居を侵そうとしたのもあるだろうが、第一の理由は魔女への一言だ。まさか、ささいな一言で自分の人生が詰むとは敵国の王も思っていなかっただろう。そして、そんな理由で平和が守られているだなんて、この国の民も知らない。
「生かしておいてよろしいのですか」
息の根を止めていない方が不思議だと、ジュストが疑問を呈すると、彼の主はきょとりと見返した。
「どうして、彼女を侮辱した奴を楽にしてあげないといけないんだ?」
逆に心底不思議そうに訊き返された。人間は死んだら終わりだ。ジュストの主には、殺す方がよほど優しいらしい。いや、実際そうなのだろう。彼の逆鱗に触れた者にまつのは、死ぬよりも辛い生き地獄だ。
ジュストには、魔女よりもずっと主が恐ろしかった。
「……ナゼール様は、魔女殿が願えば世界も滅ぼすのでしょうね」
そのときに自分はどれだけ生かされるのだろう。仮定をして侍従のジュストはまず自身の身を案じた。
「彼女が望むならね。けど、彼女は望まないよ。人の世に興味がないからね」
ジュストの呟いた感想に、ミエルはさらりと肯定しつつもあり得ない未来だと断じた。侍従のいうところの世界は人類基準のもの。人類が滅んだところで魔女のニュイには対岸の火事でしかない。人型の生物が減って商売相手がいなくなったと感じるだけだろう。
人類は彼女との時間を削ってまで滅ぼす価値などない。
しないだけと容易に返す主人に、ジュストは魔女の存在に感謝した。目の前の脅威の関心を奪ってくれることに。主人の関心のすべてを奪う存在が、厭世する魔女でよかった。
大多数の人間から恐れられる魔女も、恩恵を多大に受けるジュストには救世主に思えるのだった。
食材を手に邸からとんぼ返りする主人を見送りながら、侍従は平和を噛みしめた。