01.
国の端にある、辺境の森。
木々が鬱蒼と繁り、森の中を歩くと日中でも夜のように暗いことから、夜の森と近隣の民からは呼ばれている。その森の奥深くには魔女が住むと言い伝えられている。
人の理から外れた存在である魔女は何百年も前から夜の森にいるとされ、人々を惑わす薬を作り呪いもする恐ろしい存在のため、夜の森には近付いてはいけない。そう近隣の子どもたちは教えられて育つ。
その昔からの口伝はあながち誤りではない。魔女はその魔力保有量の多さから、身体が全盛期で時をとめ寿命が長い。夜の森に住まう魔女もゆうに百年以上は生きている。そして、人間では作れない薬を作る。魔女の行使する魔術を呪いとするかは受け取り手次第だが、代償のない魔術がないためそう認識されやすい。
だから、誰も夜の森に近付かない。いや、一人だけ足繫く通う者がいた。
夜の森の奥、多少開けた場所にぽつんと小屋があった。辛うじて太陽がさす小屋の窓からの眩さに、身じろぎする布団の中身。その布団に覆いかぶさり、耳があるであろう箇所に布団の上から囁く。
「おはよう、ニュイ」
声音だけは優しい囁きに反応して、布団からもそりとニュイと呼ばれた女性が顔を出す。
「……ミエル」
ニュイは不満を込めて起こした相手の名を口にした。しかし、呼ばれたミエルの方はにっこりと微笑み返す。
「もう朝だよ」
ただ起きる刻限と報せるだけの言葉だったが、それは暗に起きろという命令だった。
魔女の朝は早い。そんな通例はない。なのに、このミエルはきっかり朝の七時に起こすのだ。ニュイが壁の時計の針を見遣ると、やはり刻限は七時であった。
「魔女は早起きをしなくても平気よ」
「魔女が不健康である必要もないよね? 着替えを手伝ってあげようか?」
反論するもミエルの方が一枚上手であった。自身で起きなければ、起きる状況へ追いやると親切な言葉裏を読み取り、ニュイはむくりと起き上がる。
朝食はもうできるとミエルは彼女の寝室をでていった。彼がドアを閉じる前、小麦の焼けた香ばしい香りが漂ったので、確かに仕上がり目前なのだろう。香りで空腹を刺激されたニュイは、大人しく服を着替え、食卓の席へ着く。
テーブルにはできたてほかほかのパンケーキに、かりっと焼かれたベーコン、コーンのサラダとニュイの好物ばかりが並んでいた。蜂蜜の容器を持ち上げ、彼女はたっぷりパンケーキにかける。
「デザートならともかく食事まで甘くする必要があるのかな?」
黒胡椒がまぶされ塩気のきいたベーコンとともに食べるというのに、蜂蜜をかける必要性がミエルには不可解だ。理解できなくとも彼女が使うと解っているので、蜂蜜を置いたのは彼である。
「この甘じょっぱさがいいんじゃない」
甘く作られていないパンケーキへ蜂蜜がしみたのを確認して、ベーコンと一緒に一口大に切り、頬張る。咀嚼するニュイの表情は幸せそのものだ。
そんな彼女に可笑しさを覚えながら、向かいのミエルも自身の分を食べ始める。もちろんパンケーキは甘くないままで。
朝食を終え、食器の片付けまで済ませたミエルは小屋の出入り口となるドアの前に立つ。起きてしまって手持ち無沙汰なニュイはそれをなんとなく見送る。
ミエルの手がニュイにのび、両頬を挟まれる。そのまま左右に向かされ、最後には親指で目の下をなぞられた。
「うん。肌も荒れていないし、隈もない。毛ヅヤもいいね」
自身の状態を確認して満足げな彼を、ニュイは頬を挟まれたまま見上げる。いつの間にか見上げる背になっていた。
「……あたし、ミエルの飼い猫じゃないんだけど」
まるで愛玩動物の健康状態確認のようだ。彼女の抗議に、ミエルは微笑みで返す。
「飼っているようなものだろ。この森は誰のもの?」
「そんなの人間が決めただけの……」
「ニュイ?」
「……夜の森一帯はロラン侯爵領だわ」
「それで僕は?」
「そのロラン侯爵様、です」
言わされたとはいえ、あらためて彼の立場を思い出し、丁寧な言い方になってしまった。正解をいえたニュイに、よくできましたと褒めるようにミエルは満面の笑みを湛える。
彼女がミエルと呼ぶ青年は、ナゼール・ミエル・ギュスターヴ・ロラン、夜の森を含むローダンセの地を領地にもつ侯爵だ。
「なら、ニュイの飼い主も同然だよね」
雇用関係になく彼の領地で生かされている存在。夜の森の魔女ニュイは、領主の許しがなければこの地に住み続けられない。人の理と異なる存在とて、土地が人間に管理されていれば、仇なすことなどできないのだ。人間に追い立てられて住処が移り変わる手間を考えれば、彼に飼われる方が楽といえる。
状況としてそうと表現するのが一番的確にも思えるが、素直に頷きたくないニュイは口を真一文字にして黙り込む。
そんなささやかな抵抗を見せる彼女の頭を撫でて、ミエルはでていった。
彼がドアの向こうに消えて幾分か経ってから、ニュイは不満を零す。
「物好きにもほどがあるわ」
『あら、そんなに毛ヅヤがよくなったんだから、飼われてればいいじゃない』
ニュイの白髪よりもずっと艶のよい白銀の毛並みの猫は楽しげに、金の眼を細める。
「クローじゃないんだから」
『私は使い魔よ。ニュイと一緒にしないで』
クローと呼ばれた猫は、彼女の使い魔だ。契約で結ばれた関係であり、普段は気ままな猫だが、ニュイが命じれば従う。使い魔の自負があるため、飼い猫と同等に扱われるのは心外のようだ。
「あたしだって……」
飼われているわけではないと否定したかったが、否定材料が浮かばず、ニュイの言葉は続かない。
侯爵としてやることもあるだろうに、ミエルは毎食彼女の食事を作り、衣服や家具なども経年劣化がひどくなる前に新しいものを用意してくれる。ニュイが自身に頓着せず伸ばしっぱなしにしていた白い髪も定期的に梳かれ、毛先の長さも鋏で整えられる。
料理や散髪の技能は本来、侯爵には不要のはずだが、ミエルはそれすら難なくこなすのだ。
いつの間にか彼に世話を焼かれる状況が日常となっていた。一体いつからこうなったのか。
薬の調合にとりかかりつつ、ニュイは、出会った頃のまだ幼いミエルを思い返すのだった。