69. 落とし穴
クリスの怒声に背中をはたかれるようにして、私は慌てて階段を離れた。
とんだ早とちりだ。顔を合わせるのが気まずくなってしまった……。
考えてみれば今日は朝からずっと洪水のせいで忙しかったし、トイレに行けるような状況じゃなかった。ずっと我慢していたのかも……。
だけどトイレならトイレと、一言いってくれれば良かったのに。
どうにも落ち着かなくて、私は廃屋の中をうろうろと歩き続けた。
さっきも思ったけど、この家、ちょっと傾いてる。よく床も場所によっては酷くきしむ音がするし、だいぶ傷んでるみたいだ。
あんまり歩き回ると危ないかも……。
と思った瞬間。
ばきっ
えっ?
突然、床板が音を立てて折れた。内臓が浮くような浮遊感と共に、体が階下に吸い込まれていく。
だけど穴が小さかったせいか、そのまま階下に落ちることはなく途中で止まった。
「いたた……」
腕を強く打った。おかげで両腕で止まったはいいけど、肩から上だけが床に生えているような変な体勢になってしまった。
それに、足がひんやりと冷たい。変な感じがする。
あ、そうか、1階は浸水してるから足だけ水の中に入っちゃったんだ。
足を動かしてみると、どうやら膝上あたりまでが水に浸かっているみたいだった。届く範囲に触れるものはなく、完全に宙ぶらりんになっている。
とにかくここから這い上がらないと……。
「ふぬ~っ」
腕の力がうまく入らない。なにか掴めるものでもあればいいんだけど、なんにもないし……。
どうも一人では上がれそうになかった。
「く、クリス~。助けてくださ~い……」
情けない格好になってしまったけど、クリスに助けてもらうしかなさそうだ。
やがて、とたとたと床板が揺れて、クリスがやって来た。
部屋に入ってきたクリスはきょろきょろと周りを見回し、やがて目線を下に落として私を見た。
「…………なにしてるの?」
呆れたような目つきだ。
「床板を踏み抜いてしまったんです」
「ああ……そう……」
「好きでこんなことするわけないじゃないですか」
「でしょうね」
「助けてください……。一人じゃ上がれないんです」
「わかってるわよ。いまそっちに行くから、ちょっと待って。……床板が腐ってるのかしら」
クリスは一歩一歩、慎重な足取りで私の前までたどりついた。
目線が低いせいでクリスの靴が目の前に見える。
「引っ張ればいいの?」
「お願いします」
「えいっ」
クリスが私の腕をぐいっと引いた。
その瞬間、胸に刺すような激痛が走った。
「いたたっ痛い! 痛いですっ、クリス!」
「えっ!? だ、大丈夫!?」
クリスが慌ててぱっと腕を離した。
板が変な折れ方をしたせいか、体を引き上げようとすると折れ曲がった板が返しとなって引っかかってしまっているみたいだった。
「すみません、引っ張られると、折れた板が刺さるみたいで、その、胸に……」
「こ……困ったわね。どうすればいいのかしら」
「周りの板をなんとかして壊せないでしょうか。落ちるにしても、上がるにしても、このままだとちょっと難しそうで」
「そうね、やってみるわ」
クリスは私の周りの板を剣の鞘でごつごつと叩き始めた。
板はかなりもろくなっているようで、簡単に壊れそうだった。それは同時に、踏み抜く危険もあるということだ。
「すみません、面倒をかけてしまって……」
「それを言ったら元はと言えばわたしだって……その……こ、このことは言いっこなしにしない?」
「そうですね」
「…………」
クリスが板を叩き折る音だけが響く。気まずい。
そのとき、階下で、ちゃぷん、と水音がした。
なんだろう。
バタ足のように水の中に浸かった足を動かすと、ぐにゃっとした感触が靴に当たった。
「んっ、いま、なにかが足に当たったんですけど」
「なにかって何よ?」
「わからないです。でも、この辺りに……あれ?」
さっき触ったあたりを蹴ってみたけど、なにも返ってくるものはなかった。
気のせい……? いや、確かに何かあったんだけどなあ。
ざざざっ、と水をかき分けるような音が響いた。
私はクリスと顔を見合わせた。
「下に、何かいます……」
「わかってるけど、そんなこと言われたって、ここからじゃ……」
「まさか、サメですか……?」
クリスの顔色が変わり、剣を捨てて床を思い切り踏み込んだ。
空を跳ぶときの応用なのか、室内に風が吹き荒れて床板が砕け散った。その衝撃は廃屋全体を揺らし、近くの壁にまでヒビが入った。
クリスは新しく出来た穴から手を差し込んで、私の体に引っかかっていた床板を引き剥がした。
隙間から下を覗くと、サメの背びれが見えた。
「っ! 引き上げるわよ! ちょっとくらい痛くても我慢しなさい!」
「はいっ、お願いします!」
クリスが私の両脇に腕を差し込んで、ぐっと持ち上げた。
それと同時に、1階で激しく水しぶきがあがり、右足に鋭い痛みが走った。
「いっ……!?」
体が階下に引っ張られる。
「な、なんなのっ!?」
ずっしりと重くなった右足を左の足で蹴ると、ゴムのような弾力のある感触が当たった。
サメだ!
「く、クリスっ……! サメが足に……!」
私は左足でサメを蹴りつけた。
サメが激しく暴れ、ばしゃばしゃと水のはねる音が廃屋に響く。
引き上げようとするクリスと、水に引きずり込もうとするサメの間で、右足が引き裂かれるような悲鳴をあげていた。
無数の歯が脚に刺さり、その傷口が強引に押し広げられていく。
「痛い痛い痛い痛い!」
「し、シホ……! くっ!」
クリスが片腕を私から離し、落ちていた剣を手にとった。
鞘を捨て、床下に向かって剣を突き出す。
それが届いているのか届いていないのか、私にはわからなかった。
一層激しい水音が上がり、ゴキっという音が体の中に響いた。それと同時に、下へ引き込もうとするサメの力が消えて体がふっと軽くなった。
力が抜ける。右足の感覚はなく、砂嵐のようなサーッという音が耳の奥に響いていた。
「――シホ! シホ!」
クリスの声が聞こえた。一瞬、気が遠くなっていたみたいだ。
「あ……クリス……」
「サメは!? 居なくなった? 引き上げるわよ!?」
脚を動かすと生暖かい、ぬるぬるとした感触が左足に当たった。血が出ている。当たり前か。
サメに噛まれたところが異様に熱かった。
妙な違和感があった。体が脱力して、全然力が入らない。
クリスに体を引き上げてもらって、ようやく下半身が水から出た。
2階の床に、身体を投げ出した。
クリスは肩で息をしていた。まるで水浴びをしたみたいに体中から汗を滴らせている。
目を見開いて、ただ一点を見つめている。ぜえぜえと荒く息を吐きながら、腰を抜かしたように尻もちをついていた。
ただ疲れたにしては様子がおかしい。
「クリス……?」
体を起こそうとしたら、ずるりと足が滑って床にころんだ。
足の感覚が変だった。そうだ、サメに噛まれた傷はどうなってるの……?
右足を見ると、真っ赤な床が見えた。酷い出血だ。
違和感の正体がわかった。右足の、膝から下がなくなっていた。




