66. 水に潜む影
水位は相変わらず上がり続けている。いつになったらおさまるのだろう。
浸水した地面とは裏腹に空はほとんど快晴で、太陽光が水面に反射して下からも日差しが照りつけてくる。おまけに風はほとんど吹いていないものだから気温はぐんぐん上がっていき、あたりはまるで真夏のように蒸し暑くなっていた。
「おかーさん、こんなところまで水がきてるよ!」
バルコニーに出ていたリルカが叫んだ。
手すりのない板張りのバルコニーから下をのぞくと、手を伸ばせば届きそうなところにまで水面が迫っていた。
「あらあら。ここまで来るなんて思わなかったわ。それに、こんなに暑いと食材だっていつまで保つかわからないわねえ」
「もったいないですね……」
だめにするくらいなら食べてしまいたいけど、と避難させた食材を見る。
町を覆った水面は、遠目に見る限りではあまり動きもなく穏やかに見えた。かといって水が引いている様子もなく、時間を空けて同じ場所を見てみると、少しずつではあるものの水位が増えているのがわかるのだった。
「おかーさん。泳いでいこうよ。リルカねー、いぬかき得意だよ」
外を見ながら楽しそうにリルカが言った。
ライラは困ったように笑う。
「うーん、そうねえ。いざとなったらそうするしかないわねえ」
バシャーン、と水しぶきの上がる音が聞こえた。
外を見ると、私たちと同じように家に残っていた人が高台へ向かって泳ぎはじめている。
最初の一人が合図になったように、他の建物からも続々と水に飛び込む人が現れた。
「ヒャッハー!」
楽しそうな歓声まで聞こえてくる。
「シホさーん、きもちーよー」
「えっ? リルカさん?」
声が下の方から聞こえてきた。見ればいつの間にかリルカがバルコニーから降りて水に入っていた。自慢のいぬかきで泳ぎ回っている。
「あら、リルカったら! だめよ、はやくあがっていらっしゃい」
「えー? へーきだよー。おかーさんも来ればいいのに」
心配するライラをよそに、リルカはライカ亭から離れていく。
大丈夫かな、危なくない?
それにしても、町で泳ぐなんて。いつも見ている場所とは思えない。不思議な光景だ。
そのとき、
「ウワーッ!」
「な、なんだぁーっ!?」
悲鳴が聞こえてきた。それも一箇所からではなく、あちこちから聞こえてくる。目を向けると、さっきまで泳いでいた人たちが慌てて建物へ戻っていくのが見えた。
辺りが異様な緊張感の漂う空気に包まれている。クリスもバルコニーに出てきた。
「何があったんでしょうか」
「わからないわ」
「リルカ、早くもどっていらっしゃい!」
リルカにも悲鳴は聞こえているようで、戸惑ったように泳ぎを止めて周りを見回していた。
すると、リルカの近くの水面に垂直に立つ黒い三角形が現れた。
それは何かを探るようにすいすいと方向を変えながら水を切り泳ぎ回っている。
「リルカ! 水の中に魔物がいるわ!」
クリスが叫ぶと同時に、ライラが飛び込んだ。
泳ぐリルカの後ろに、黒い影がせまってくる。
ライラはすぐにリルカの元に泳ぎ着いて、リルカを抱えて戻り始めた。
「ライラさんっ!」
私はバルコニーの上から水面に身を乗り出して手を伸ばした。
「リルカを――!」
ライラが両手でリルカを抱き上げて私に託した。上からクリスの手が伸びて、リルカの襟首をつかんで強引に引き上げる。
次はライラだ。
「きゃあっ!」
這い上がろうとしたライラが水の中に引きずり込まれて見えなくなった。
「おかーさん!!」
リルカの叫びが水面を滑る。
一瞬の間があいて、少し離れたところにライラが顔を出した。水の中にいる何かに掴みかかっているようだ。
「ライラ!」
クリスが剣を抜いてライラに向かって投げた。
ライラは一瞬だけこちらを見て、あとは目も向けずにクリスの剣を片手でキャッチした。
そして大きく息を吸い、自分から水中へ潜って姿を消した。
「ライラさん……!」
突然、大きな水柱が上がった。
雨のように降り注ぐ水しぶきの中、ライラが水面から顔を出した。
周りを見ながら、私たちのほうへ泳いでくる。
今度はみんなで手をつかんで引き上げた。
「おかーさん!」
「ありがとう、クリスちゃん。剣なんて久しぶりに使っちゃった」
「あっ、ライラさん、脚が……」
脚から流れる血が、滴り落ちる水と混じってバルコニーの床板に真っ赤な水たまりを広げていく。
「噛まれちゃった。まったく、油断したわね。はやく止血しなくっちゃ」
ライラはなんでもないように話しているけど、ひどい大怪我だった。
膝から上の太腿がえぐれたように食いちぎられて、止めどなく血が溢れ出している。目を背けたくなるような惨状だ。
「ごめんなさい、リルカがおかーさんの言うこと聞かなかったから……」
うつむくリルカに、ライラは落ち着いた声で言った。
「大丈夫よ。お母さん頑丈だから、このくらいなんともないの。でも手当はしなくちゃね。リルカ、はさみとお酒、あと包帯を持ってきてくれる?」
「う、うん!」
リルカが棚へ向かう。
バルコニーにいたクリスが叫んだ。
「また来るわ! みんな、早く部屋の中に入って!」
クリスが剣を構えると同時に、水面から大きな影が飛び出した。流線型のシルエットをしたその影は、真っ赤な口を開いてクリスに襲いかかる。あれは……
「サメ!?」
飛びかかってきた巨大なサメを相手に、クリスが真っ向から切りつける。
硬い音がして火花が散った。刃と歯がぶつかり合ったのだ。
「くっ……」
全体重をのせたサメの突撃を受けてクリスが少し押された。
両者が弾き合い、サメは空中で体をひねって水の中へ戻っていく。
その水面に、別の黒いヒレが走っていた。
「クリス! また別のサメが!」
「わかってるわ!」
体勢を立て直したクリスが剣を脇に構えた。
水しぶきとともに2匹のサメが左右から同時に飛びかかる。
「なめるんじゃないわよっ!」
クリスは前へ一歩、強く踏み込んだ。バルコニーの床板がミシリと悲鳴をあげる。
そして左右のサメを、大振りの横薙ぎで一度に叩き返した。
2体のサメが放物線を描いて遠くに飛んでいく。
ええ、すごっ……。
「ふんっ」
だけど、それで終わりじゃなかった。さらに別のサメが水中から飛び出してきたのだ。
クリスの隙をついた攻撃。ただし狙いはクリスじゃない。
サメは、バルコニーにいるクリスを素通りして、私たちのいる部屋に飛び込んできた。
「しまっ――」
クリスが叫ぶ。鮮血が、白い壁に飛び散った。




