65. 洪水
降り続いた雨はその夕方になってようやく止んだ。
日が落ちてからは雲が切れて、数日ぶりに青い月が顔を見せた。食堂を出たお客さんの中には空を見上げてお祈りをする人もいたくらいだ。
私も、その夜はクリスと二人で夜空を見上げたのだった。
「今日は久しぶりに明るくていい夜ね」
「そうですね。でも、夜が明るいのってなんだか違和感があるんですよね。夜って、もっと暗かったような気がして」
「変なこと言うのね。月はどこにいても見えるでしょ? あ、わかったわ! シホの住んでたところは雨が多かったんじゃないかしら!」
クリスが名推理でしょ、と言いたげに目を輝かせる。
私はあまりピンとこなかったので、曖昧に笑って返事を返した。
だけど、こうして隣で月を見るクリスが居てくれるなら、なくしてしまった記憶のことはもうどうでもいいような気がした。
涼しい風が吹き抜けた。雨が空気の汚れを洗い流してくれたおかげで、空が透き通ったように月がよく見える。
「今夜の月は、本当に綺麗ですね」
「そうね。とっても綺麗だわ!」
青い月光を浴びるクリスの横顔は、月に負けないくらい綺麗だった。
翌朝、私はいつもより早い時間に目が覚めた。
外から人の声が聞こえる。遠くから大声を出して呼び合っているみたいな切羽詰まった声だ。しかも一人や二人ではなく、大勢の声。
なんだろう。
私は窓から外を眺めた。町が茶色に染まっている。
「えっ、なんですか、これ!?」
慌てて窓を開けて身を乗り出した。
昨日とは町並みが一変していた。
まるで茶色い絵の具で塗りつぶされたように泥水が町を覆ってしまい、道路も水路も区別がなくなっている。
外を歩く人は膝下のあたりまでがとっぷりと水に浸かっていた。
「た、大変です! クリス、起きてください!」
私はクリスをゆさぶり起こした。
「……なに……? 朝から騒がしいわね……」
くあっ、とあくびをしながら、クリスがごろんと寝返りをうった。
「洪水です! 町が水浸しになってるんですよ!」
「えっ、本当!?」
さすがにクリスも飛び起きた。
急いで着替えをすませて階下に降りていくと、階段が途中で途切れたように水の下に沈んでいた。実際は水のほうが上がっているんだけど。
濁った水面下に、かすかに床が見える。
毎日通っている場所がこんなことになっているというのは、かなり衝撃的な光景だ。
足を踏み入れることに一瞬ためらったものの、ライカ亭の一員としてじっとしているわけにもいかない。
私はざぶんと水の中に踏み出して食堂への渡り廊下へ向かった。
食堂にはライラとリルカがいた。こちらも起きたばかりの様子だ。
「おはようございます。ライラさん、リルカさん」
「あっ、シホさん! どうしよう、お店沈んじゃうのかなあ」
リルカが私を見てしがみついてきた。珍しく不安げな表情が浮かんでいる。
そこへライラが優しく声をかけてきた。
「もう、リルカったら大げさね。このくらいの洪水はよくあることなのよ? 前はちょうどリルカが生まれた年だったわね。懐かしいわあ」
なんて、のんきに昔を思い出しているようだ。
私はクリスにたずねた。
「よくある……? そうなんですか?」
「わたしはまだ小さかったからあんまり覚えてないけど」
とクリス。水に浸かった自分の足を見て顔をしかめている。
ライラは両手いっぱいに荷物を抱えて2階への階段を上がっていた。
「お店のことは心配いらないわ。でも、まだ水位が上がるかもしれないから油断しちゃだめよ。避難するなら急いでね。早いほうがいいと思うから」
「ライカ亭が大変なときに逃げるわけにはいきません。私にもなにか手伝わせてください」
「シホちゃん……。それじゃあ、貴重品をまとめたらここの2階へ来てちょうだい。食料と飲み水は確保してあるからしばらくは大丈夫なはずよ。ああ、そうだわ。宿の2階にもう一組お客さんが泊まってるの」
「私が起こして知らせてきます」
幸い、宿泊客は私たちのほかにはライラの言っていた若い夫婦が泊まっているのみだった。私がドアを叩いたときはまだ眠っていたようで、窓から外を見て驚いていた。彼らは急いで避難するという。
私たちは一度部屋に戻り、荷物の整理をはじめた。
「貴重品と言っても、お金くらいでしょうか」
給料の大半は使う機会もないので、貯まった硬貨はずしりと重い。この量を全部持ち出しても仕方がないだろう。とりあえず買い物に持っていく程度のお金を手に取った。
「あとは……」
クリスにもらった髪留めを付ける。キリオンからもらった石は……とりあえずカバンに入れておこう。
階段を降りて水の中に足を踏み入れると、膝の上までどっぷりと水に浸かった。さっきよりも明らかに深くなっている。この上さらに水位が上がれば、簡単には行き来ができなくなるかもしれない。
だけど……。私は窓から空を見上げた。
「雨は降っていないのに、どうして」
雨どころか、空は晴れて日差しも出ている。
「わかんないけど、川の上のほうで降ってるんでしょ」
クリスが剣を肩に担ぎ上げながらなげやりに言った。
私たちは持ち出し用の荷物を置いて、ライラたちの手伝いに加わった。
運ぶものは軽い荷物でも、階段を何度も往復するものだから、かなり大変だ。
階段の途中で息を切らしていると、後ろから追いついたクリスが私の運んでいる荷物をひょいと取り上げた。
「2階に運ぶのはわたしがやるわ。シホは運び出すものを選んでくれればいいから」
「そ、そうさせてもらいます……」
そんなこんなで荷物をあらかた運び終わったところでライラが軽食を作ってくれた。火を使うことができないのでハムやチーズなどが具材のシンプルなサンドイッチだったけど、朝から動き回ってお腹を空かせた私たちにとってはご馳走だ。
だけど和やかな空気は長くは続かなかった。外では水位がどんどん増して、お昼を過ぎた頃には腰の高さを越えた。水はどこまで増えるのだろう。




