38. 一緒に
空にはどんよりとした分厚い雲が広がっている。薄暗く、いまにも雨が降りそうな天気だった。
走るクリスを追いかけようとしたけど、私が追いつけるはずもなく結局見失ってしまった。脇腹がずきずきと痛む。足を引きずるようにして、私はライカ亭への道をたどった。
もしかしたら帰ってきているかもしれない。そう思いながらドアを開けたら部屋の中は暗かった。
肩を落としながら一歩足を踏み入れると、むっとした獣のようなにおいが鼻をついた。
何かが部屋の中にいる……。というか、このにおいは
「クリスさん?」
灯りをつけると、部屋の隅に小さくうずくまっているクリスがいた。膝を抱えて頭を伏せているので顔は見えない。
姿を見つけて凄くほっとしている自分がいた。
「えーと……おかえりなさい。クリスさん。何してるんですか、灯りもつけずにそんなところで」
私が話しかけると、クリスはちょっとだけ顔を上げて、こちらを伺うように目だけを見せた。
「…………シホは、どこ行ってたの。遅かったじゃない」
「普通にまっすぐ帰ってきましたけど……?」
「……あ、そう」
とりあえず、私は汚れた服を着替えることにした。
着替え中に視線を感じたような気がしたけど、着替えを終えても相変わらずクリスは膝を抱えたままじっとしていた。
妙な緊張感が漂っている。
「クリスさん、ごはん食べに行きませんか?」
「…………」
「あ、その前に着替えですね。ついでに体もきれいにしちゃいましょう。お風呂に入れれば良かったんですけど、もう閉まっちゃいましたよね」
私がお風呂と言ったとき、クリスがぴくりと反応した。
「…………怒ってないの?」
子供みたいに怯えた声だった。
キリオンを突き飛ばしたことを言っているのは間違いないだろう。
「怒ってませんよ。怪我はしてなかったですし。でも、どうしてあんなこと」
「……ごめんなさい」
「その言葉はキリちゃんに。あ、さっきの子の名前、キリオンっていうんですけど。クリスさんは初対面でしたっけ」
「…………仲良さそうに見えた」
「え? ええ、まあ。何度か会う機会があって仲良くなったんです」
「あ……あの子のところに行くの…………?」
声が少し震えている。どういう意味だろう。
「謝りに、ですか? あ、でもどこに住んでるか知らないんですよね。どうやって連絡をとればいいんでしょうか」
今になって、こちらから連絡を取る手段がないことに気がついた。
今度会ったら住所を聞いておこう。
「そ、そうじゃなくて、いや、謝るけど…………あの子と一緒に、暮らすつもりなんでしょ……」
「はい?」
話が飛躍しすぎていて、クリスが何を言っているのかよくわからない。
「……違うの?」
「違いますよ。というか、なんでそんなこと思ったんですか」
「だって……仲良さそうに見えたから……」
「仲良くなったことと一緒に暮らすことと、どういうつながりが……?」
「……わたしとは?」
「クリスさんと? それは、まあ、成り行きというのもありますけど……」
以前、ライラの提案で別の部屋に引っ越す機会もあったけど、結局私は、私の意思でクリスと一緒にいることを選んだ。あれ? そういえば、クリスには相談もしなかったんだっけ。
それをいまになって言うのは、過去に働いた悪事を白状するような後ろ暗さを感じる。だけど、この空気、白状したほうが良さそうだ――
「――そういうわけなので、私がいまこうしてクリスさんと一緒に暮らしているのは、クリスさんにも内緒で私が勝手に決めちゃったことで、ただのわがまま……ですね。いままで黙っていてすみません。その、あのとき話そうと思ったんですよ? でも、さらっと流されて言う機会がなくて……言い訳ですよね、こんなの。つまり……私はクリスさんと一緒に居たいんです。そばに居させてください」
言い切ってしまうと、すっきりしたような恥ずかしいような、妙な心持ちになった。
クリスはいつのまにか顔を上げていた。私のことを不思議な生き物を目にしたような表情で見つめている。
「…………」
返事がない。不安になってきて、聞き返す。
「だめですか……?」
「だっ、だめじゃない。わたしもシホと一緒にいたい」
そう言ったクリスの顔がみるみる赤く染まり、お湯を沸かしたみたいに湯気が立った。
「あ、ありがとうございます。そう言ってもらえて嬉しいです」
「う、うん……」
互いに目をそらす。なんだろうこの空気、恥ずかしい……。
私の方までクリスの熱が伝わってきたみたいで、部屋の空気は冷たいのに体がぽかぽかと熱くなってきた。
きっと部屋の空気がこもっているせいだ。換気をしようと思って少しだけ窓を開けた。冷たい風が入ってきて、甘ったるい匂いの空気をさらっていく。
薄墨色の空から、小さな白い粒がふわふわと降っていた。
「これって……。雪……? 雪です、クリスさん、雪が降ってますよ」
「え? ……本当だわ。まだそんな季節じゃないのに、珍しいこともあるものね」
「このあたりでは、雪はよく降るんですか?」
「少しはね。毎年降るみたいだけど、沢山積もることは少ないかも」
私たちは窓の前で隣り合って、舞い落ちる雪を眺めていた。
雪はほんの少しの間降っただけで、すぐに止んでしまった。
窓を閉めても、吐いた息が白くなる。雪が降るくらいだから急に冷え込んできたみたいだ。換気なんてしなければよかった。
部屋のすみっこにうずくまると、クリスが隣に座った。
「さ、寒いです……」
「ばかね。窓なんて開けるから」
「クリスさんは寒くないんですか?」
「わたし? 全然平気。鍛えてるもの」
「鍛えてるかどうかって関係あるんですか? うう、指先が凍りそうです……」
「しょ、しょうがないわね、手貸しなさい」
「わ、クリスさんの手、温かい……!」
クリスの手をにぎったり、肩をくっつけたりしているうちに、私の両足の間にクリスが座る形に落ち着いた。
少し小さいクリスの体が私の腕の中にすっぽりとおさまる。
背中からぎゅっと抱くと、お腹がぽかぽかと温かくなった。
「あ、あのね……結構汗かいたと思うから、におうかもしれないんだけど……」
すんすんとにおいをかいでみる。すっぱいような甘いような、それでいて香ばしいにおいもする。
他にもいろんな要素がまざりあって、なんというか、とても野性的な香りだ。
「大丈夫です。生きてるって感じのにおいがします」
「ああそう……って、ねえ、それ遠回しに臭いって言ってない?」
「私は好きですよ。このにおい」
「そ、そう……」
クリスの体が熱くなって、ほかほかとした湯気とともに甘いにおいが強くなった。
「そういえば……あの子、キリオンっていうの? 今度会ったら、ちゃんと謝るから」
「クリスさん……。そうですね。近いうちライカ亭に来るでしょうから、そのときにでも」
そのときにはちゃんと紹介しよう。二人が仲良くなってくれれば良いなと私は思った。
クリスが何を思ってキリオンを突き飛ばしたのかは少し気になるけど、いまはそれを聞く気分じゃない。
「…………ねえ」
クリスが難しそうな声で私に呼びかけた。
「なんですか?」
「なんでわたしには“さん”付けなわけ?」
さん。私が“クリスさん”と呼んでいる理由?
「特に、理由はないですけど」
「……なんか、やだ。呼び捨てにして」
少しすねたような声で、クリスが言った。
「えっと、クリス」
「ん。それでいいわ」
クリスが振り向いた。顔の距離がくっつきそうなほど近い。
満足そうに笑う瞳が、月のように青く輝いていた。
第3部、完!
次回はいつもどおり明日更新予定です
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