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海にありては

作者: いのり


 天にありては星、地にありては花、人にありては愛、これ世に美しきものの最もたらずや。(高山樗牛)





 瑠璃が住む街には、虹の浜と呼ばれる場所がある。山の裏にある小さな砂浜なのだが、そこには波がどこからか色とりどりの美しい貝殻を運んでくるのだ。砂浜に打ち上げられた貝殻は辺り一面を埋め尽くし、太陽に照らされて美しく輝く。風が吹くと貝殻どうしがぶつかり合い、まるで楽器のような美しい音を奏でる。砂浜には毎日たくさんの貝殻が打ち上げられ、街の人気スポットとなっていた。

 瑠璃は幼い頃両親に連れられて虹の浜を訪れ、そのあまりの美しさに一目惚れして貝殻をいくつか持ち帰った。そしてどうにかしてそれを身につけたいと考え、貝殻でアクセサリーを作り始めたのだ。高校生になった今も、瑠璃はたまに砂浜を訪れては貝殻を集め、アクセサリーを作っている。それらは全て瑠璃の宝物だった。

 その日も、瑠璃はアクセサリーの材料を集めるために砂浜を訪れていた。

 砂浜にしゃがみ込み、一つ一つの貝殻を手に取り太陽にかざして観察する。そうして気に入った貝殻を肩から下げたカゴに詰めていくのだ。どの貝殻も美しいが、輝き、色合い、形、どれ一つとして同じものはない。貝殻を見つめる瑠璃の目は真剣だった。

 どれほどそうしていただろうか。ずっと作業をしていた瑠璃は、一度休憩しようと顔を上げる。


「あれ、なんだろう?」


 瑠璃から遠く、砂浜の端に倒れた大きな影が目に飛び込んできた。よく目を凝らしてみるとその影は人間のようだ。


「大変!」


 瑠璃は地面に広がる貝殻に足を取られながらもその人影に駆け寄った。

 近づくにつれて、その正体が明らかになっていく。その人影の下半身が足ではなくヒレだと気づいた瞬間、瑠璃は思わず立ち止まり、驚いたように目を見開いた。


「嘘」


 思わずそんな声が漏れる。そして瑠璃はその人魚をじっくりと観察した。

 たっぷりとした黄金色の髪は地面に力なく投げ出され、そのかんばせを隠してしまっているため表情を窺い知ることはできない。ヒレを覆う鱗は濃く深い青色で、その黄金色の髪とのコントラストも相まってより美しさが際立っていた。

 当然だが、瑠璃はこれまでの人生で一度も人魚を見たことがなかった。話しかけてみようか。瑠璃の中で未知のものへの恐怖と好奇心がせめぎ合う。そして結局好奇心が勝ったので、瑠璃は恐る恐る人魚に話しかけた。


「大丈夫ですか?」


 返事はない。そもそも、人魚に言葉は通じるのだろうか。

 瑠璃は首を傾げた。それにしても、この人魚は微動だにしない。

 瑠璃はそうっと手を伸ばしてその体を揺さぶった。それほど強い力を使ったつもりはなかったのだが、人魚の体がごろんと転がり、そのかんばせが露わになる。

 予想通り美しく整った顔は血の気が引いており真っ白で、瞳は固く閉じられており、頭から血が流れていた。

 怪我をしているのなら手当をしなくては。瑠璃は家で手当をしようと人魚を抱えようとしたが、瑠璃と同じくらいの体長である彼女を持ち上げることはできなかった。では助けを呼ぼうと辺りを見回すが、早朝の砂浜に瑠璃以外の人影は見当たらない。

 瑠璃の家はここから走ってすぐだ。瑠璃は急いで家に戻り、人魚を乗せて運搬できそうな大きさの台車を見つけた。

 瑠璃は台車を押して虹の浜に戻り、なんとかその上に人魚を乗せる。そうしてバランスを崩さないように気をつけながら、家までの道を急いで帰った。

 家に着くと、瑠璃は浴室に向かい、人魚を浴槽の中に横たえた。一人暮らしの家の小さな浴槽では彼女は入りきらず、ヒレが浴槽から飛び出してしまう。

 瑠璃は蛇口を捻り浴槽の中に水を溜めていく。その間に台所に向かい、棚の中にしまってあった塩の袋を取り出した。浴室に戻ると、袋の中の塩を一斉に浴槽の中に入れ、水に溶かす。これは家まで海水を持ってくることはできないから、せめて人魚にとって慣れ親しんだ海水を再現しようという瑠璃の心遣いだった。

 そして自分の部屋から救急箱を持ってくると、怪我をしている部分を確認する。どうやら額が切れているようで、流れている血の量の割りに怪我はそれほど深くはなさそうだった。けれども頭を打っているのなら油断はできない。

 救急車を呼ぶべきだろうか。でも、病院で人魚を診てもらえることはできるのか? 瑠璃は迷いながらもとりあえず消毒しなくては、とティッシュに消毒液を含ませ、そっと傷口に当てる。


「いたっ!」


 そんな悲鳴と共に、人魚の閉じられていた瞳がばちりと開かれた。大きくヒレが跳ねて、瑠璃は驚いて後ずさる。


「ご、ごめんね、しみちゃった?」


 傷跡に消毒液が染みた経験は瑠璃にもある。その痛みを思い出して謝ると、人魚はここで初めて瑠璃の存在に気づいたように目を瞬かせた。


「誰?」

「私は瑠璃。あなたは?」

「あたしはジュリ。ここ、どこ?」


 不思議そうにキョロキョロと辺りを見回す人魚──ジュリに、瑠璃は答えた。


「ここは私の家。ジュリ、あなたは砂浜に打ち上げられていたのよ」


 そんな瑠璃の言葉に、ジュリは「思い出した」と納得したように頷く。


「泳いでいたらうっかり強い海流に巻き込まれちゃって、岩に頭を打ったんだった」

「そう。頭は痛くない? 目眩がするとかは?」

「大丈夫だよ。助けてくれてありがとう」


 そう言って頭を下げたジュリに、瑠璃も「どういたしまして」と頭を下げる。そして、手に持った消毒液とティッシュを掲げた。


「よし、じゃあ消毒するわね」


 途端にジュリは嫌そうに顔を顰めた。先ほど傷口に染みたのがよほど痛かったのだろう。


「大丈夫だよ、そんなことしなくても。放っておいたら治るもん」

「そういうわけにはいかないわ。傷口からバイ菌が入ったら余計に痛くなるのよ?」


 ジュリはぐっと押し黙ったけれど、余計に痛くなるという一言が効いたのか、覚悟を決めたように一つ頷いた。


「わかった。早くやって」

「オッケー」


 そっと傷口にティッシュを当てる。ジュリは今度は悲鳴をあげることなく、唇を噛んで痛みに耐えているようだった。その顔を見ていると瑠璃にも罪悪感が湧き上がる。早めに済ませてしまおうと、消毒を終わらせ大きな絆創膏を傷口に貼った。


「よし、できた」


 瑠璃がそう言った瞬間、ジュリの強張っていた体から力が抜けた。そのままずるずると水の中に沈んでいく。息を止めていたのか、大きく息を吐き出した。


「この傷が治るまではここにいていいよ。うち、お父さんもお母さんもいないんだ」


 そう言った瑠璃に、ジュリは悲しげに眉を下げた。大きな瞳からぽろりと涙が溢れる。涙は浴槽に張られた水の中に落ち、溶けて消えていった。


「ど、どうしたの? 傷が痛む?」


 突然泣き出したジュリに、瑠璃は慌ててその涙を拭う。瑠璃の言葉にジュリは首を横に振って、ぽつりと呟いた。


「だって、家族がいないなんて、それってすごく寂しいことだよ」

「私のために泣いてくれたの?」


 ジュリの答えが予想外のものだったので、瑠璃は目を丸くする。けれどもそれと同時にじわじわと嬉しさが込み上げてきた。ああ、この人魚はなんて愛らしいのだろう!


「人魚ってすごく感情が豊かなのね」

「そうなのかな。涙なんて初めて流した」

「そうなの?」

「だって、海の中では涙が出たかどうかなんてわからないもん。もし瞳から涙が出たとしても、すぐに海と混じって気づかないよ」


 それもそうか。瑠璃はカルチャーショックを受けた。海の中で生きる人魚と陸の上で生きる人間では常識が違うのだ。

 初めて涙を流したから涙を止める方法を知らないのか、ジュリはなかなか泣き止むことができなかった。そんなジュリを安心させるために、瑠璃はそっと彼女を抱きしめる。服が水に濡れたけれどそんなこと気にならないくらい心がぽかぽかしていた。


「大丈夫よ。家族はもういないけれど、私には友達がいるもの」

「そっか、ならよかった」


 ジュリが嬉しそうに笑う。ジュリが笑うと自分も嬉しいということに瑠璃は気づいたので、そっと笑い返した。


「ジュリももう私の友達よ」

「本当? 嬉しい! 私、人間の友達ができたの初めてよ」

「私も、人魚の友達ができたのは初めてだわ」


 そう言って、二人は笑い合った。


 そうして、瑠璃とジュリの二人暮らしが始まった。

 瑠璃は街にある高校の二年生なので、平日は毎日学校に通わなくてはいけない。その間浴槽から出られないジュリは暇だろうと考えた瑠璃は、様々な人間の文化をジュリに教えた。小説、マンガ、ドラマ、映画。瑠璃は多趣味だったので、家にはたくさんのものがあった。街には子供が遊ぶ場所が少ないので、どうしても多趣味になってしまうのだ。特に家族のいない瑠璃は、孤独を紛らわせるために様々なものにのめり込んでいた。

 そして、瑠璃の数多くある趣味の中で一番ジュリが興味を持ったのがアクセサリー作りだった。


「私ね、将来アクセサリー屋さんを開きたいの。ママがアクセサリーをたくさん集めてて、いつも綺麗なアクセサリーを身につけてたわ。アクセサリーをつけたママはより一層美しくなるの。それを見て、私も身につけた人をより美しくするアクセサリーを作る人になりたいなって思ったのよ」


 瑠璃が語った将来の夢を、ジュリは興味深そうに聞いていた。そして瑠璃がいつものように砂浜から拾ってきたカゴの中の貝殻を見て、ジュリは「これ、人魚の鱗だよ」と驚いたように言ったのだ。


「そうなの? ずっと貝殻だと思ってたわ」


 瑠璃だけでなく、街の人間みんながそう思っている。突然知らされた真実に瑠璃は驚きを隠せなかった。


「間違いないよ。私たち人魚は、一ヶ月に一度鱗が剥がれて新しいものが生えてくるの。その鱗は剥がれたらそのまま波に流されていって、その後どうなっているのか考えたことはなかったけれど……すごい、全てここの砂浜に辿り着いてたんだ」


 ジュリは感動したように瑠璃が集めた鱗を見つめる。瑠璃はその話を聞いて、この美しい鱗をますます好きになってしまった。

 休日になると、瑠璃はジュリにアクセサリー作りを教えた。


「こうやって鱗に穴を開けるのよ」


 そう言って瑠璃がお手本を見せると、ジュリもそれを見ながら恐る恐る真似をする。それを繰り返して作業を進めていくと、あっという間に鱗のネックレスが完成した。


「すごい、かわいい!」


 出来上がったそれをジュリはとても気に入って、早速首から下げた。その笑顔を見ていると瑠璃も嬉しくなる。アクセサリー作りはずっと瑠璃が一人でやってきたことだったから誰かと一緒に作るのは初めてで、とても新鮮だった。


「人魚の鱗って綺麗よね」


 出来上がったネックレスを見つめながら瑠璃はそう言う。ジュリも「そうだね」と返したけれど、瑠璃にはジュリがどこか落ち込んでいるように見えた。ついさっきまではネックレスが出来上がったことを喜んでいたのに。何かまずいことでも言ってしまっただろうかと自分の言動を振り返ってみるけれど分からなくて、瑠璃はジュリに直接聞くことにした。


「どうしたの?」


 心配そうな瑠璃に、ジュリは言おうか言わまいか迷うように視線を彷徨わせた後、おずおずと口を開く。付き合いはまだ短いが、ジュリはすっかり瑠璃に心を開いていた。


「……あたしの鱗は綺麗じゃないから」


 それはジュリの最大の悩みだった。


「海の中の世界では、美しい鱗を持つ人魚ほど人気なんだ。このネックレスに使った鱗の持ち主も、きっと美しい人魚なんだろうな」


 そう言いながらジュリは首から下げたネックレスを掲げて見せる。そのネックレスに使った鱗は淡いピンク色と白のグラデーションで、浴室の照明の光を弾いてキラキラと輝いていた。

 次いで、ジュリは自分のヒレに目をやる。ジュリの鱗は淡い色の鱗が多い人魚の中では珍しい濃く深い青色をしており、はっきり言って地味だ。海の中では差し込む日の光を反射して輝くこともできない。むしろ海底の闇に混じって見えなくなりそうだというのは、ジュリをよくからかう仲間たちの言葉だった。


「あたし、自分の鱗が大嫌い」


 これ以上自分のヒレを見ていたくなくて、ジュリは視線を逸らす。この浴室は照明をつけると海の中よりも眩しくて、鱗の色がよく見えるのだ。


「そんな、ジュリの鱗だって綺麗じゃない。私は好きよ」

「そんなことないよ。周りの人魚はみんなあたしの鱗をバカにしてる。怪我した日もね、鱗の悪口を言われて、悲しくなってその場から逃げ出したら海流に巻き込まれたんだ」


 自嘲気味に笑うジュリに、瑠璃は悲しげに目を伏せた。瑠璃は本当にジュリの鱗が好きだったけれど、今それを言ってもきっとジュリには慰めとしか取られないだろうということはわかっていた。ジュリの怪我はもう治ってきている。きっと後一週間もすれば海に帰ることになるだろう。それまでに、瑠璃はジュリに何かをしてあげたかった。

 そうして、瑠璃はある計画を立てた。


 夜。瑠璃はこっそり浴室に忍び込んだ。非常時用に置いてあった小さな懐中電灯で浴槽を照らす。浴槽の底では、体を極限まで小さく丸めて浴槽の中に全身を沈めたジュリが眠っていた。この寝姿を初めて見た時、ジュリが溺れ死んでしまったのではないかと焦って叩き起こしてしまったのは今では良い思い出だ。いきなり起こされて不機嫌になったジュリに普段は海の中で生きている人魚が溺れ死ぬわけがないでしょと呆れたように言われて、瑠璃は早とちりした恥ずかしさとジュリを叩き起こしてしまった申し訳なさでいっぱいだった。

 気を取り直して瑠璃は腕まくりをした。今夜の瑠璃の目的はジュリではない。ジュリが起きてしまう前に早めに用事を済ませてしまう必要があった。

 浴槽に張られた水の上にぷかぷかと浮いた鱗をそっとつまむ。

 ジュリは人魚は一ヶ月に一度鱗が剥がれて新しいものが生えてくると言っていた。だから、瑠璃はその時を今か今かと待ち構えていたのだ。そして昼間、ジュリのヒレから剥がれた一枚の鱗がゆっくりと水面に浮上してきたのを確認した瞬間、瑠璃は今夜計画を実行に移すことを決意した。

 慎重に集めた鱗を袋に入れる。時間をかけてなんとか水面に浮かんだ全ての鱗を回収すると、瑠璃はそっと忍び足で浴室を後にした。

 そのまま向かうのは瑠璃の部屋だ。机の上に丁寧にジュリの鱗を並べると、瑠璃は棚からいつもアクセサリー作りに使っている道具一式を取り出した。そして作業に取り掛かり始めた。

 翌朝目を覚ましたジュリが「鱗が生え変わってる」と言うものだから、瑠璃はどきりと鼓動が早まるのがわかった。瑠璃がジュリの鱗を集めていることはまだバレるわけにはいかなかったから、生え変わったことが気づかれないようにジュリが寝静まった夜に回収したのだ。だから、まさかジュリに鱗が生え変わったことに気づかれるとは思わなかった。瑠璃から見れば生え変わる前と後の違いが分からないが、人魚にだけ分かる独特の感覚があるのだろう。


「あれ、剥がれた鱗はどこに行ったんだろ?」


 ジュリは鱗が剥がれた感覚はあるのにそれが一枚も見当たらないことに首を捻っていたけれど、瑠璃が「排水溝に流れたんじゃない?」と言うと納得したのかそれ以上追求はしてこなかった。ジュリとしてもただ気になったから聞いただけで、別に剥がれた鱗がどうなろうと興味はないのだろう。

 そんなジュリに、瑠璃もそっと胸を撫で下ろした。


 それから一週間後、ジュリの怪我が完治した。大きな絆創膏をペリッと剥がすと血が滲み痛々しかった傷口はすっかり癒えており、もうぱっと見てどこを怪我したのかわからないくらいだ。

 けれども、ジュリの怪我が治ったことを喜ぶ瑠璃に反して、ジュリの顔は晴れなかった。


「帰りたくないな」


 ぽつりと呟く。鱗のことでからかわれ、友達もいない海の中よりも、瑠璃という唯一無二の友達ができた陸の上の方がジュリは好きだった。

 そんなジュリに、瑠璃は困ったように眉を下げた。瑠璃だって、本当はジュリに海に帰ってほしくなかった。ジュリが帰ってしまえば瑠璃はまたひとりぼっちに逆戻りになってしまう。

 瑠璃は、自分は孤独ではないと思っていた。家族がいなくて家に一人で暮らしていても、学校に行けば友達がいるから平気だと思っていた。けれども、ジュリと出会い一緒に暮らすようになったことで、瑠璃は初めて自分が寂しがっていたことに気づいたのだ。そして気づいてしまった今、一人暮らしに戻ってしまったらそれに耐えられる自信がなかった。

 本当は泣いて引き止めたい。けれどもそういうわけにはいかないのだ。人間と人魚では住んでいる世界が違う。ジュリのことを思うなら狭い浴槽よりも広い海の方が良いだろう。それをよくわかっているからこそ、瑠璃は泣く代わりに微笑んだ。


「私も、ジュリが海に帰っちゃうのは残念だけど……良ければまた会いにきて。私も、またあの砂浜に行くよ」

「本当に? 約束だよ」

「うん、約束」


 そう言って右手の小指を出すと、ジュリはきょとんとした顔でそれを見つめた。その反応で人魚の世界には指切りはないのかと気づいた瑠璃は、優しく教えてあげる。


「人間はね、約束をするときは小指を絡め合わせるのよ」

「そうなんだ」


 ジュリも一つ頷いて、そっと小指を絡めた。その拍子にジュリの指と指の間にある水かきに指が触れて、本当に違う生き物なんだと実感する。

 指切りの歌を歌い、約束を交わして絡めあった指を解くと、瑠璃は反対の手に隠し持っていたあるものをジュリに差し出した。


「ジュリにプレゼントがあるの」


 それは小さな箱だった。ジュリは驚いたようにその箱を見つめ、次いで瑠璃の顔を見る。そして恐る恐るその箱を受け取った。

 箱にかかった金色のリボンをゆっくりと解いていく。

 中から出てきたのは、鱗がふんだんに使われた髪飾りだった。その鱗は吸い込まれるような濃く深い青色をしていて、所々に散りばめられたパールの白を引き立てている。

 その鱗を、ジュリは見たことがあった。


「これ、あたしの……」

「そうよ。ジュリの鱗で作ったの。勝手に使ってごめんなさい」

「ううん。すごい、あたしの鱗なのに、全然違うものみたい」


 あれほど嫌いで見るのも嫌だったはずの自分の鱗から、ジュリは目が離せなかった。髪飾りが不思議な引力を放っているかのように惹きつけられる。まるで魔法のようだ。


「ジュリは、この鱗の色がなんて名前か知ってる?」

「色? 青色じゃないの?」

「青色にも色々な種類があるのよ。例えば、空の青と海の青は全然違う色でしょう?」

「本当だ!」


 ジュリは驚いて思わず叫んでしまった。だって、そんなこと考えたことがなかったから。ジュリにとっては空も、海も、等しく青色だった。けれど言われてみれば、その二つはどう見ても同じ色ではない。そしてジュリの鱗の青色もまた、空とも海とも違う色をしている。


「あたしの鱗の色はなんて名前なの?」


 ジュリがそう聞くと、瑠璃は笑って教えてくれた。


「瑠璃色、って言うのよ」

「瑠璃色……瑠璃の名前と同じだ」

「そうよ。これを見て」


 そう言ってジュリの目の前に差し出された瑠璃の右手の薬指には、シルバーの指輪がはめられていた。そこについている小粒の石は、ジュリの鱗と同じ色をしている。


「この指輪はね、私のママの宝物なの。ママはこの指輪の石の色から、私の名前をつけてくれたんだ」


 ジュリはその指輪から目を逸らすことができなかった。だって、今までに見た何よりも、それが美しく感じたから。そしてその色は、ジュリの鱗と同じ色なのだ。


「瑠璃色……」


 ジュリは噛み締めるようにゆっくりとその言葉を呟いた。

 自身の持つ鱗の色がなんと言う名前なのかさえ、ジュリは知らなかった。知ろうともしなかった。ただ周りにバカにされるからと嫌い、遠ざけていた。

 けれどもどうだろう。この鱗の持つ色は、こんなにも美しい名前をしていたのだ。


「ね、ジュリの鱗ってとっても素敵でしょう?」


 そんな瑠璃の言葉に、ジュリは深く頷いた。


「貸して、つけてあげる」


 瑠璃にそう言われて、ジュリは素直に髪飾りを渡す。瑠璃はジュリの後ろに回ると、その黄金色の髪を櫛で梳かした後にハーフアップにまとめ、髪飾りをつけた。瑠璃の計算通り、ジュリの明るい髪に瑠璃色の髪飾りをつけると引き締まって見える。瑠璃は自分の想像以上の出来に満足げに頷き、ジュリに鏡を渡した。鏡越しに自身の髪を確認したジュリも、その出来を気に入って「ありがとう」と笑う。


「あたし、自分の鱗が好きになれそう」


 その言葉は、瑠璃がずっと聞きたかったものだった。瑠璃はこのために、こっそりジュリの鱗を回収し、髪飾りを作ってプレゼントしたのだ。

 瑠璃はママの宝物の指輪のような、身につける人をより美しくするアクセサリーを作る人になるのが夢だ。瑠璃の作った髪飾りによってジュリが自分の鱗を好きになる手助けができたのなら、瑠璃にとってそれほど幸せなことはない。

 瑠璃はジュリを砂浜から家まで運んできた台車にジュリを乗せ、海岸まで運んだ。二週間ぶりに海へとやってきたジュリは、その美しさに目を奪われる。

 何を隠そう、ジュリはいつもその中で生きていたから、こうやって遠くから海を見るのは初めてだったのだ。太陽の光を弾いてキラキラと輝く海面や、砂浜に打ちつけるさざ波。自分の故郷はこんなに美しいところだったのかと、ジュリは心震える思いだった。


「海って、こんなに綺麗なところだったんだ」


 帰りたい。ジュリは初めてそう強く思った。

 ジュリは台車から勢いよく水面に飛び込んだ。ぼちゃんという音と共に海面に波紋が広がる。瑠璃がその波紋を見つめていると、その中心からジュリが顔を出した。


「またね、瑠璃! 大好き!」


 そう大声で叫び手を振るジュリに、瑠璃も負けじと大声で叫び返す。


「またね、ジュリ! 私も大好きよ!」


 ジュリは満面の笑みを浮かべて、また海の中へと潜っていった。そしてもうその後浮かんでくることはなかった。

 瑠璃は一人で、広がる波紋が消え海が元の姿を取り戻すまでずっと海面を見つめていた。


 それから一週間後。

 一人で海岸沿いの道を歩いていた瑠璃は、誰かに名前を呼ばれた気がして足を止めた。きょろきょろと辺りを見回すが、人影は見当たらない。


「空耳かな……」


 首を捻りながら再び歩き始めようとすると、先ほどよりも大きな声で「瑠璃」と呼ぶ声が確かに聞こえた。空耳じゃない。そう確信して、もう一度人影を探す。


「瑠璃、こっち」


 今度こそしっかりと聞こえたその声は、聞き覚えのあるものだった。瑠璃は陸と海の境目を走る堤防から身を乗り出し、海を見回す。水平線まで広がる青い海の中に、ポツンと見覚えのある黄金色が浮かんでいた。


「ジュリ!」


 瑠璃がそう叫んで手を振ると、ジュリはすうっと堤防の下まで泳いでくる。彼女と別れたのはたった一週間前なのに、ひどく懐かしくて、瑠璃は気を抜けば泣いてしまいそうだった。


「私に会いにきてくれたの?」

「うん。あのね、瑠璃にお礼が言いたくて」

「お礼?」


 なんだろうかと首を傾げる。すると、ジュリが器用に水中でくるりと回転して後ろ姿を見せる格好になった。その黄金色の髪を後ろでまとめる髪飾りがキラリと光る。それは、見間違えるはずがない、ジュリと別れる時に瑠璃があげたものだった。


「みんながね、この髪飾りのことをすごく褒めてくれたの。あたしの鱗でできてるのよって言った時のみんなの驚いた顔といったら! 瑠璃にも見せてあげたかったよ」

「そう、よかった」


 自分の鱗が嫌いなのだと、悲しげに目を伏せながら言ったジュリはもういない。彼女は自分の鱗に自信を持ち、目を輝かせて可愛いでしょと笑う。それが瑠璃はとても嬉しかった。

 そんな瑠璃に、ジュリは「それでね」と続ける。


「みんなが、瑠璃に自分の鱗でアクセサリーを作って欲しいんだって」


 その言葉と同時に、ジュリの背後に広がる海面にいくつもの波紋が浮かんだ。海の中から次々に人魚が顔を出す。彼女たちはみんなそれぞれ手の中に瓶やカゴを持っており、その中にはたっぷりと鱗が詰まっていた。みんな自分の鱗を集めてきたのだろう、瑠璃が見る限りではどれ一つとして同じ色合いのものはない。そしてそのどれもが目を奪われるほどに美しくて、瑠璃は顔を輝かせて「もちろん!」と返事した。

 人魚たちがわあっと歓声をあげる。

 それからしばらくして、瑠璃は休日限定のアクセサリーショップを始めた。お客さんはもちろん、みんな人魚だ。彼女たちは毎週休日になると海辺に行列を作り、お店はとても繁盛した。あまりの忙しさにとても瑠璃一人ではアクセサリー作りが追いつかなくなり、後日、美しい瑠璃色の鱗を持つ人魚が一人、新しく店員になったとか。

 海辺のアクセサリーショップはいつも賑やかだ。

 だから、瑠璃はもう孤独ではなかった。

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