夜の海に誘われる
夫は酒が強い。
身体が酒が強いのではなく、気力で強いのだ。
だから、飲み会の時は「後々まで引くから、お酒控えて楽しんでね」と送り出す。
その日は同窓会だった。
送り出した時、夫の背中が妙に小さく感じた。
それは、本州では夏。
北の地では、もう夜は寒い時期だった。
夫が地元に帰って来たので、同窓会に出席すると言う。
少し離れた場所だったので、帰れなければホテルに泊まると。
そして見送る。帰りは今夜遅くか、明日の昼頃かな。と思いながら。
玄関を出てエレベーターに向かう後姿が少し小さく感じ、妙な寂しさを覚えたのは何かの知らせだったのだろうか。
そして夜中になり、ああ、帰りは明日になるのだな。今頃昔話で盛り上がっているのだろうな。
等と勝手に思いながら床に就いた。
まだ暗い朝の4:40に電話が鳴った。
こんな時間に?悪い予感しかしない。
電話を取る。
「〇〇さんのお宅ですか?こちら△△病院と申します。
ご主人が、酔って海に落ちました」
その場にストンと座り込む。電話の向こうで何かを喋っているが、耳が遠くなる。
気が遠くなっている。
泣いていた。
死んでしまった。死んでしまった。一緒に暮らして3カ月も経っていない。
なんで?
なんでですか?
受話器から声が聞こえる。
冷たい震える手で受話器を取り上げる。
「申し訳ありませんが、もう一度お願いいたします」
「〇〇さんのお宅で宜しいですね。〇〇さんはご主人で宜しいですね」
「はい。はい」
「ご主人がお酒に酔って、埠頭から海に落ちました。現在は低体温になった身体を温めています」
生きている。
「命に別状はないんですね」
「はい。外傷も特にないようです」
「発見されたのは、何時ですか?」
「4:30頃ですぐに、こちらに運ばれました。4時間ほど海に浸かっていたようです」
では、今は冷えた身体を温めている。もう数時間はかかる。
動かせないな。
ならば・・・
「判りました。始発で参ります。最寄りの駅と、もう一度病院のお名前を教えて下さい」
住所、駅、病院名をメモに書き、電話を切った。
向こうとしては、直ぐに来るものだと思っていたような口ぶりだが、無理。夫の車はMTのマセラッティー運転できません。タクシーそこまで使えない。
着替えを全部用意する。上着から靴下、下着まで全部。
携帯電話のグーグルマップだより、に明るくなってきた住宅街から自転車をこぐ。
紙袋には着替えの他に、引っ越しの時に配る予定だった菓子も入っている。
「引っ越しの挨拶って、しないよ」と言われたため、隣と下の階だけに挨拶に行き、その残りだ。賞味期限も確認済。
健康保険証。お財布にもお金を多く入れてある。救急車と救急病院の時間外治療っていくらかかるの?
そして、道に迷う。それも想定内。私は良く迷う。
人に聞こう。しかし誰も居ない。
しばらく、こっちかな?という方向に進むと、ウォーキングしているおばちゃん二人。
「駅はどちらですか?」
おばちゃんは、90度横に指をさす。
まあ、あることよ。ありがとうございまーす。と礼を言い自転車を漕ぐ。
そして、駅。10分前に着く。
しかし、駅で確認すると始発の時間は携帯での情報の30分後だ。つまり40分駅で過ごすのだ。大きな駅の中はどこも開いていない。
一度駅を出てコンビニに行く。
飲み物、サンドイッチを購入。戻ってベンチでモソモソ食べる。
食べ終わり、後は携帯で降りる駅を調べるも、どこの方向から調べても言われた駅の一つ前の駅。
携帯を信じるか。
時間だ。電車に乗る。
1時間電車に揺られる。
「命に別状はない」「外傷はない」その言葉を何度も胸の中で連呼する。
救助された時に、名前と電話番号だけ言って気絶したそうだ。
「気絶」その言葉も重い。どんな状況だったの?なんで海の中に居たの?
夫と付き合って一年で結婚した。
その付き合っている期間にも一度死にかけている。
数週間も高熱にうなされていた。
病院はベットがいっぱいで入院出来なかった。
真夏のうだる室温が41度とか意味の分からない数字を出している。
体温計も40度。日中は37.5度とかが、夜になると一気に熱が高くなる。
その日は違った。
日中から38度を超えていたと思ったら夕方には40度を超えた。そして夜になって体温が下がりだした。
どんどん下がる。35度を切った。低体温症だ。
慌てて炭酸の入っていたペットボトルにお湯を入れて股や脇の下に挟む。
滝のように流れる汗が冷たい。34.5度。危険すぎる。
声を掛け続けた。
彼はうわ言で「ごめんね」と言い続けていた。
言葉が止まった。
息も止まっていた。
世界が蒼く静かになった。
ふざけんな。ざっけんな。
心臓を確かめる。微かに動いている。
鼻をつまみ、口を開け、気道が真っすぐになるように顎を上げる。
口をつけ息を吹き込む。胸が上がる。口を離す。胸が下がる。また口から息を吹き込む。
どれくらいだろう。数分か5分か10分か。
その後、規則的な呼吸を自発で始めた。湯も何度も替える。体温計は35.9度。
もう大丈夫なはず。私も体力も限界だった。そして多分腰を抜かしていた。
ダブルベットの上の彼の身体を転がし、汗で濡れた場所を乾かす。マットは汗を大量に吸い込んでいた。
四つん這いに這いながら、反対側の彼の元に行き、着ている物を交換する。着ていたシャツは汗で重くなるほどだった。
その後、何度か目を覚ました時は飲み物を飲ませた。
私の居る時で良かった。
私は金曜の夜から日曜の終電までしか居れなかった。
もし平日になっていたら、私が第一発見者だったのだろうか。
再び心が冷えて、その晩は床に座り彼の顔を見続けていた。
それが病気の底だったのだろう。
翌日はゼリーやプリンなどを食べ始めた。体温36.2度。
翌週から一気に回復に向かった。
ああ、あれも8月の半ばだったか。
なぜ一年の間に二回も死にかけるのだ?
駅に着く。
駅の地図では真っ直ぐの200メートル。携帯の情報が合っていた。電話してきた人、土下座しろ。
病院に着いた。
横の小さいドアだけ開いている。
入ると薄暗い中にドアが開いて光が見える。
看護師が居た。名前を告げると、案内をしてくれた。
そこには銀色のミノムシの、顔が夫の奇妙な物体があった。
「なんなんですか、ネタですか!」
安心と怒りで最初に出た言葉だ。
「だって、俺、すごくがんばったんだよ」
小さなガラガラ声で応えた。
うん。うん。頑張ったね。生きていてくれて有難う。
もう動かせるという。
着替えを渡す。着替えている間に、看護師さんに菓子を渡して会計を頼む。
菓子は喜んでくれた。
会計。覚えていない。でも安かった。そして、200円スリッパ代。靴を忘れていた。
ビニール袋が渡される。着ていた服だ。黒くてヘドロ臭くて重い。紙袋に入れる。
スマートフォンは水没していた。
財布はなかった。
病院の守衛から「〇〇交番で財布を預かっているそうです」
有難い。タクシーで向かう。
財布はそのままの状態であった。拾ってくれた人に感謝。名前も言わずに去ったという。重ねて有難う。
タクシーで駅に向かい、電車に乗る。
ごめんね。車で来れなくて。タクシーに乗ろうってお財布の事情で言えなくて。
電車は何度か降りた。トイレで吐いていた。ヘドロを吐き続けていた。
飲み物を買って飲む。また吐く。
途中下車を何度か繰り返した後で、なんとか駅に着く。そこからはタクシー。座席に沈む。
家に着くと、体力の限界なのは分かるけれど、無理にお風呂に入れる。
髪までヘドロだったから。ベッドが汚れる。絶対身体が休まらない。
無理矢理風呂場に放り込み一緒に入る。湯船に入れて、頭だけ出させて髪を洗う。案の定黒い水が出る。湯船に入り、体温も上がったのだろう。スポーツドリンクを飲んでは吐く行為を繰り返した。
吐くものに黒いのがなくなった頃に、風呂から上げて、水分を飲ましてベットに寝かせる。
寝ている間に着ていた物を洗おうとするも、シャツも白いデニムも昆布の様に切り刻まれていた。
無事なのはパンツだけだが、ヘドロにまみれていたので一緒に捨てる事にする。
デニムの裾を見る。裾の25センチくらいにヘドロがベッタリ付いている。
ああ、彼はタンカーも寄せる埠頭で、深さ10メートルの海の底まで沈んでしまったのだ。
それでも浮かび上がり、直立の岸壁から上がることも出来ずに助けを4時間半呼び続けた。
見付けてくれたのは、たまたま来た釣り人だったと。
昆布の服は二重に袋に入れてごみに捨てた。
時折うなされれた声がする。
「お帰り。もう家だよ」
何度も伝えた。
翌日、細かく話が聞けた。
酒はほとんど飲んでいない。
3杯とか。同窓会で友人たちが集まった。
女性とも沢山話した。その一人は、未亡人で亡くなったご主人も同級生で友人だった。
その友人の話をたくさんした。
そして、終電に乗るのに駅に向かった。
そこから記憶がない。
駅とは反対側の埠頭に行っていた。
気付いたときには、海に落ちた瞬間だった。
真っ直ぐに切り立ったコンクリートの淵で、コンクリートの中の石が指の先ほど出ている所に必死に摑まって助けを呼び続けた。波で身体が流され鎮められても、何とか浮き上がった。
何度も何度も、海の底まで足が着いた。靴はそこで脱ぎ捨てた。
結婚したばかりで、私が泣くと、誰も知らない場所に連れてきてしまった。必ず帰らなければと。
本当に本当に必死だったと。
私は泣いて抱き着いた。
彼は霊感が強すぎて、神社に行くと乗っ取りに来たかと神様が臨戦態勢を取ると言うほどだ。
そんな彼に取り憑いて、駅の反対側に誘い歩き続けさせたのは誰?
飲み会での会話で出た友人だったのだろうか。
友人が夫の意識を乗っ取り、海へ直線に歩かせたのか。
友と言っていた。
だからこそ、ガードが緩くなったのか。
私はその存在を許さない。
今は無くなってきたが、少し前まで不安がこびりついていた。
もしかしたら「今」というのは、あの時以降の現実を拒んでいる私の夢なのではないかと。
「今」の実感が欲しくて、寝ている夫の頬をそっとなでたり、自分の腕を嚙んだりしていた。
ああ、今というのは本物だ。
私は安心して今日も眠りにつくのだった。