夜の山の気 人の影
去年の初夏、猫が死んだ。
夫と相談して決めた。
亡骸は山に埋めよう。
半年ほど前の夏の初め。
家の猫が死んだ。
夫婦で色々考え、山に埋めることにした。
本当に色々と考えた。
病院で死亡を確認して、すぐに届いたペットの葬儀屋のメールに嫌悪したせいもある。
夫婦での会話ですら
「海難事故で死体を食べてもらえるのはいいな」
や
「山の行方不明は山岳救助やヘリでお金がかかる」
「こんだけ飽食の時代に飲み食いさせてもらった身体を、高い葬儀代を出して灰にするのは申し訳ない。何かに喰われたい」
などと話していた。
もちろん、それが他の人になった場合は、とてつもなく不謹慎なことだと自覚している。
私の将来の夢は「鳥葬」だった。ペルー側は今は死肉を食べる猛禽類が激減してできなかったり、チベット側は政治的不安ともともと外からの人間の「鳥葬」は受け入れていなかった。
夢はかなわないということだ。
だから、ペットで代用しようとしたわけではない。
ただ、それが生き物の正しいサイクルだと思ったのだ。
しかし、国有林でも不法遺棄には違いない。
人目のつかない夜に行こう。
食べる事すら一瞬考えたが、具体的にナイフで皮を剝ぐなどと考えたら、もう身を傷つけることはしたくなかった。
遺灰を持っていたかったが、その奥にほくそ笑んでいる宗教法人という集団が見えるようで諦める。
綺麗にした猫の亡骸をバスタオルに包んでベッドの二人で寝る枕の間に置いて仮眠をした。
寝たか。少しだけ寝たか。
夜の1時。
亡骸を抱え車に乗る。リュックには懐中電灯。後ろにはスコップが積んである。
公園の奥の自然林の中に遊歩道がある。
遊歩道には灯りが灯っているがそこから数メートル森に入ると木々が茂り、暗闇に覆われた。
懐中電灯と携帯電話の懐中電灯の機能で足元や周囲を確認する。そして、木の根が開いている場所に70センチほどの深さの穴を掘って土の底に置いた。
もう弛緩している。だって、小さな猫だったしな。
子猫用の小粒のドライフードを口元に置いて、二人で撫で続けた。
その時に思った。何か花の種でも持って来ればよかったな。そうすれば、来年には花を咲かすかもしれない。
これは自己満足だな。
弔いは生きていく人のためだ。
夫は言った。
夫の腕の中で死んだ子猫は、柔らかく幽かな光が身体から離れて丸い形になり、すうっと夜空に真っすぐに上がって消えたと。
生前の元気で素直な性格のそのままに、なのか。
人の死に目に遭ったことがなんどかあるが、やはり柔らかい光が身体から出て上に昇るという。
私は見えたことはないが、夫は幽霊や神などが視えるから羨ましい。
私も夜空に昇る魂を見たかった。
痛む身体から自由に軽やかに上る姿が見たかったのだよ。
涙を流すことも、花の種を蒔くことも、魂が正常に清浄に昇っていく獣には意味のない事なのだ。
しばらく意味のない涙を流した。
その後、土を戻していく。
土に還るのだな。魂は天に昇り、肉体は土に還る。それは正しい姿なのだろう。
顔に土を被せるのが最後まで出来ずに、木の葉を千切り、顔を覆って土をかけた。
掘り起こした土を戻したら、周辺に馴染んでしまった。
ああ、これだから自然の山は貪欲に身に獣の屍を隠したがって困る。
でも、これで淋しくはないよな。
私は寂しいよ。
ゆっくりと遊歩道に戻った。
元来た道を帰ろうとした。
夫が立ち止まり言った。
「ちょっと、こっちに行ってみよう」
珍しいものだ。
直行直帰がデフォルトなので、散策をしようと誘われ驚く。
と、気づいた。
遊歩道は山道の少し下った場所にあるが、上には車も通れる道が伸びている。
私らもそこから来たのだが、どうも上の道路に人の気配がする。
灯りもチラチラ見えるので携帯で話しながら歩いているようだ。
確かに山の中の遊歩道からスコップを持って鉢合わせするのは、心証も宜しくないだろう。
夫としばらく遊歩道で山の静寂に身を置いた。
むわっとするほど森の夜の気配が濃密で強い。自然林だからだろうか、なんというか木々の生々しさ、山の荒々しい気が満ちている。
それらを感じながら、見るともなしに上の人の気配を探る。
上にいる人は携帯でしゃべりながら、行ったり来たりをしていたが、しばらくして消えた。
携帯で話すときにウロウロと歩く人っているよな。と知人を思い出していた。上の人もそのタイプなのだろう。
少しして、
「もう帰ろうか」
と言ってきたので、やはり上の人を避けるためだったようだ。
同意し、遊歩道から少し急な斜面を登り上の道に出る。
車を止めた場所から少し離れて登りついた。結構、上の人を待っていたのだな。と思った。
車に乗り込み家に帰る。
家まで車で15分ほど。
家に帰り、そのまま寝てしまえば翌日には日常に戻る。
たまに不意に涙が止まらなくなるが。
そんな日々の中、悲しみで動けなくなってしまった。
食べたくない。動きたくない。ただ悲しい。生きていくのが申し訳ない。
ぼんやりと泣いている私を見て、夫が
「憑いているね」
と言った。
ツイテイルネ?
何が?
顔に?
何?
「鏡で顔を見てきてご覧」
言われて見るも、意味が分からない。
戻って伝える。
「そう」
夫は手を上下に合わせて擦り合わせる仕草をした。
そして、そのまま私の額と目を覆った。
手が温かい。ホットアイマスクだ。
少しして手を離した。
「もう一度鏡を見てきてご覧」
鏡を見る。
おやおや。これは凄いな。
青い筋が出ている。血管ではない。蒼黒い指でなぞったような筋が顔に何重にもあるのだ。目の下のクマだけではない。
眉尻の真上の毛の境目から額の中央に向けて二本の青いすじが眉頭を通り目頭から目の下を流れるのが左右。
目の下から鼻脇を通りほうれい線をなぞり頬骨に沿って耳下に流れる。
ほうれい線から顎下に流れる。
白い顔に浮き出る蒼黒いスジが左右対称に走っている。
歌舞伎の隈取は赤が若者やヒーロー、青が悪霊や悪者、茶色が怨霊、神として表現されている。
その解釈は正しいようだ。
どうやら、私には悪霊が憑りついていたらしい。
その後、夫に取ってもらった。
そして、あの夜のことを話し出した。
「あの森に埋めた後、上の道に何か居たのに気づいたかい?」
「うん。誰かが携帯電話で話していたよね」
「携帯?」
「うん。オレンジ色っぽい灯りがチラチラ見えていた。なんか工事現場とかで使うような特別な携帯かな?今の携帯は白い灯りだもんね。
その人を、やり過ごすために少しあの場所に残っていたのでしょう?」
「そう。少し気付いていたんだね。
でもね、あそこに居たのは、二人だったんだ」
「そうなの?」
「姿は見えなかった?」
「影っぽいのが話しながら行ったり来たりをしていた。ずっと一人が携帯で話しているのだと思っていた」
「人じゃないよ。
通り過ぎた神社があるでしょ。そこと山の気が混じり合った禍々しい存在。
二人で来ていてね、俺たちを探していた。
赤い光は、提灯かカンテラ。
二人で「おるか?」「おるか?」「そこに、そこにおるのか?」
って話しながら、こちらの様子を伺っていた」
絶句である。
その存在は、神社か山に居る禍々しい気がヒトガタになったもので、おそらく夫の強い気配に気付き確認するために来たのだろう。
その場ではバリアをして身を隠していて、やり過ごしたが、禍々さんの残滓のようなものに中てられて私の気が崩れ、小さな禍々さんが憑りついたのだという。
あの山に居たのは、とても強かったので隠れてやり過ごしたのだと言う夫に今更ながら恐怖を感じる。
それ以来、時折私は憑かれている。
もともと憑かれやすい体質だったそうだが、山に行って憑かれた際に、入り込む穴を開けられて払っても払っても、心が沈み体が疲れているときに憑かれるそうだ。
穴というのは、首の後ろのにある。
アトラスの骨といえば分かるだろうか。俯いた時に出る骨で、その下の窪みが「盆の窪」と言う。
ここから禍々しい存在は憑りつくそうだ。
払うときには、この場所と額に手を数分当てる。
払われる方の自覚はないが、手からの熱でとても温かく心地よい。
そして、「終わったよ」と声を掛けられ目を開けると、少し視野が明るくなって肩の凝りも軽くなっているのだ。
そういえば子供のころに誰かに後ろから指で、この盆の窪をツンツンとかカリカリとか触られたことが何度かあった。
驚いて振り返るも誰もいない。
そうかあれは、私に憑りつこうとしていたのか。
爪で引っ掛かれるような感触や、冷たい指先。ああ、死人の指だったのか。
子供のころには気づいた感覚も、今は感じずに入り放題というわけだ。
今でも猫が死んでしまったことを悔いては、私は禍々さんに「お入り。どうぞ」と身を開け放している。
「もし、憑かれたままならどうなった?」
「そういった人はいくらでもいるよ。でも、心が壊れたり、同時進行で身体も悪くなるだろうね。運も悪くなるだろうし」
「わあ。最悪が山盛りだね。ところで、空いた穴はパテかなんかで埋めることは出来ないのかい?」
聞いたが答えはない。どうやら知らないらしい。
でも、とりあえず、猫を抱っこして猫のゴロゴロいう音を身体で聴くのが回復につながるようだ。それにエビデンスがあるか分からない。
ただ、自分を幸せにする手っ取り早い方法がソレってことだけだ。
しかし、ふとした時に夫の言葉と私の想像力がダッグを組み映像が頭に浮かぶ。
二つの奇妙なヒトガタが、カンテラを掲げて私たちを探している。
チロチロとした火の灯りが周囲の闇を深くする。
「おるか?」
「おるのか?」
「あそこか?」
「見えやせぬ」
「口惜しや」
「ああ、口惜しいのう」
言い合う影は濃く黒く。
自然林の闇は深い。生命力も強い。それは、禍々しい存在にも力を与えている。