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ジャマイカサウンド史

ジャマイカサウンド史 ~ レゲエの誕生(ボブ・マーリーとジミー・クリフの功績)

作者: Tanaka-KOZO

1960年代中期よりジャマイカ島内でブームとなった「ロックステディ」であったが、60年代後半になるとスカ~ロックステディから発展した「レゲエ」が誕生する。


「レゲエ」は広い意味ではジャマイカで発生した音楽全般を指すが、ここでは一つの音楽ジャンルとして「ルーツ・レゲエ」という呼称で取り上げ、お話させていただく。


「レゲエ (reggae)」と言う呼称の語源はいろいろあるが、もっとも有力とされているものは、「ボロ、ボロ布、または、口論」という意味を指すジャマイカ英語のスラング「レゲレゲ (rege-rege)」からという説である。


「ルーツ・レゲエ」は歌詞が社会、政治、物質主義、植民地主義などへの批判や反抗を主題とするものが多い。


これはジャマイカ国民の90%以上がアフリカからの黒人奴隷または、西インド諸島、アメリカ大陸からの逃亡奴隷「マルーン」の子孫たちであることが大きい。


ジャマイカ人達は、これまでの疎外感や抵抗の歴史が、ラスタファリ運動やキリスト教バプティスト派の宗教的影響を強く持つこから、このような政治的メッセージが強い歌詞を「ルーツ・レゲエ」に乗せている。


※ラスタファリ運動とは、ジャマイカ独自の思想&運動であり、マーカス・カーヴィーが唱える「黒人地位向上運動」の発展形で1930年に誕生。(マルコムXより先人とされる)


その考えは当時のエチオピアの皇帝だった「ハイレ・セラシェ」が、白人に支配される世界から全ての黒人たちを脱出させ、約束の地エチオピアへ帰還するというもの。


ドレッドなどの、独特のヘアースタイルもラスタの教義から派生したものだ。


60年代後半~70年代に誕生した「ルーツ・レゲエ」を語る上で、この音楽ジャンルを世界的に広めた2大ミュージシャンがいる。


そう、一人は「ボブ・マーリー」で、もう一人は「ジミー・クリフ」である。


「ボブ・マーリー」は1945年、ジャマイカ・セント・アン教区のナイン・マイルズで、ジャマイカ人の母とイギリス人将校の間で生まれた。


50年代中頃、キングストンへ移り住み、そこでバニー・ウェイラーと出会い、音楽活動を始める。

62年、レスリー・コングのプロデュースでソロで初レコーディング。


翌63年、バニー・ウェイラー、ピーター・トッシュらと結成した6人グループ「ザ・ウェイリング・ウェイラーズ」で、コクソン・ドットのスタジオ・ワン・レーベルからデビューする。


66年、ウェイラーズは、マーリー、バニー・ウェイラー、ピーター・トッシュの3人になる、また同年にはエチオピアのハイレ・セラシェ皇帝がジャマイカを訪問し、マーリーはラスタ信仰を深めるようになる。


72年、クリス・ブラックウェルのアイランド・レコードと契約し、翌年「キャッチ・アンド・ファイア」をリリース、世界進出を開始する。


※ちなみにアイランド・レコードだが、当時は既にイギリス法人だったアイランド・レコードだったが、元々は59年にジャマイカで設立。


当初はレゲエ作品を送り出し、その後62年には法人をイギリスへ移し、キング・クリムゾンやエマーソン・レイク&パーマーのなどのロックを配給する。(※英国圏内)


73年にはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ(ザ・ウェイラーズ)や、ジミー・クリフをジャマイカから発掘し、レゲエブームを巻き起こし、設立当初の目的も成し遂げた。


さてマーリーだが、その後、74年ウェイラーとトッシュが脱退し、新たなメンバーとボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズを再編成する。


マーリーの曲はエリック・クラプトンを始めとする多くのミュージシャンもカバー。


「(ルーツ)レゲエ」を世界的に広め、また初めて第三国からの世界的成功をしたミュージシャンという功績は大きい。


「ジミー・クリフ」は1948年、ジャマイカ・セント・キャサリンで生まれる。


ジャマイカがイギリスから独立した年でもある1962年に、キングストンへ移り住み、同年レコード・デビュー。

翌63年には、「ディアレスト・ビヴァリー」「ミス・ジャマイカ」等でやっとヒット曲が生まれる。


64年、ニューヨークでスカのショーに参加し、その後アイランド・レコードのクリス・ブラックウェルに誘われてロンドンへ移り住む。


そこで様々なロックアーティストと活動。


68年、ブラジル歌謡祭に出演し、その印象を曲にした「ワンダフル・ワールド・ビューティフル・ピープル」が同年大ヒットする。


そして72年、レゲエとジャマイカの状況を初めて知らせた映画「ハーダー・ゼイ・カム」に出演、サントラにも参加し話題を呼ぶ。

これにより、クリフとレゲエは世界的なものとして知られるようになる。


73年以降は英米の大手レコード会社らと契約し作品を発表。


93年にはボブスレー競技ジャマイカ代表の実話を元にしたディズニー映画「クール・ランニングス」のサントラ収録「アイ・キャン・シー・クリアリー・ナウ」が大ヒットしたのが記憶に新しい。


このようにレゲエが世界的に広がっていく一方で、ジャマイカ本島ではDJたちの躍進が続いていた。


Uロイを始めとするジャマイカンDJブームの話はまた次章でお話します。


… つづく


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― 新着の感想 ―
[良い点] 拙書の参考にしたく、拝見させていただきました。 時代背景や政治の状況も踏まえ、大変勉強になります。 [気になる点] ハーダーゼイカムが出て一つ思ったこと。 ロッカーズも忘れてはなりません…
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