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第八十一話 婚約者

「コップどこだっけな……」

「別にいいわよ?」

「いえ、そういう訳には」


 夏休みも終わりに近づいたある日、珍しく俺の部屋に伊集院先輩が遊びに来ていた。

 折り悪くシス達は園芸部の温室に遊びに行っており、部屋には俺と先輩の二人だけだ。


 いつもシスがお茶とか用意してくれてたから、コップが置いてある場所がわからない。


「お、あったあった」


 来客用のコップを取り出し、伊集院先輩の元へと戻りテーブルの上に置く。

 伊集院先輩はクッションに腰掛けたまま思案顔でコップへと注がれる麦茶を見ていた。


「……、マメねぇ」


 麦茶だってペットボトルやパックの物を買うと高いからな。

 まぁ、用意しているのはシスだけど。


「神無月君さ、彼女いるんだっけ?」

「知ってて聞いてますよね? 居ませんよ」


 勲章貰ったり九頭龍戦に出たりして、少しはモテるかと思ったのだがそういう事はまったくなかった。

 受章直後は下駄箱とか引き出しの中とかちょくちょくチェックしていたのだが、一度手紙をもらっただけだ。

 世の中そう甘くはないということだろう。


 そう言えば、あの件以降シスが少し朝早く起きるようになった気がするが。

 まぁ関係ないか。


「じゃあさ――私と結婚しない?」


 伊集院先輩の口から想定外の発言が飛び出した。


「……、はい?」


 え、なんだって?

 薮からスティック。

 寝耳にミミズ。

 犬も歩けばここほれワンワン?


 いやいや、この『けっこん』って言葉は何か意味のある言葉かもしれない。

 血痕、結魂、KEKKON。

 マリッジ?

 違う違う。


 よーし、落ち着け。

 どうどう。


「私、結構お買得物件だと思うんだけどどうかな?」


 混乱の極地に陥った俺の元へ、さらなる追撃が入る。

 北の将軍様でもここまで無慈悲な追撃はしないのではないだろうか。

 危なく麦茶をこぼすところだった。


「い、いや、何言ってるんですか?」

「家事得意だし、ちゃんと旦那様を立てるし、それに自分で言うのもなんだけど見栄えも悪くないと思うんだ」


 からかっているのかと思ったが、真剣な眼差しと笑みの消えた口元。

 そして震える手が、本気だと物語っていた。


「……、どうして、ですか?」

「どうして、か。そうだよね、急に言われても困るよね」


 そう言うと伊集院先輩はぽつりぽつりと話し始めた。


 伊集院先輩の実家は、旧華族系の所謂名家というやつらしい。

 尤も、伊集院先輩曰く、その権勢は今は昔。

 ダンジョンが出現して以降は斜陽となり、没落寸前らしいが。


 そして、同じく名家の神宮寺家から協力を得るため、神宮寺先輩との婚約話が持ち上がったそうだ。


「でもさ、神宮寺先輩、心の決めた人がいるのよ」

「なるほど……」


 神宮寺先輩のことは尊敬しているし、嫌いではない。

 しかし、尊敬しているからこそ、その思いを踏みにじりたくないのだ。

 そう伊集院先輩は小さく呟いた。


「でも、それなら俺じゃなくても良いんじゃないです?」


 伊集院先輩は美人だし、スタイルも良い。

 もちろん性格も。

 何この完璧超人ってくらいなもんだ。

 正直、俺では釣り合わないと思ってしまうのだが。


「神無月君以外ってなると、奥さんに先立たれたご隠居さんの後添くらいしか無いわね」

「それは……」


 流石に可哀想というか。


「でも、俺、何の力もありませんけど」

「……、高校一年生にして九頭龍、剣付き旭日章持ち。そして研究所の名誉教授。十分じゃないかしら?」


 将来性も考慮すればと、伊集院先輩は苦笑いを浮かべた。


 確かに個人としては破格かも知れないが、家を支えられるほどではないだろうに。

 そんな思いが伝わったのか、彼女は俯いてしまう。


「それだけ、追い詰められてるのよ……」


 そこまで家が大事なのだろうか。

 自分の娘を犠牲にするほどに。


「家が傾いてもね、昔のことが忘れられずに色んなイベントのスポンサーになったりしてるの。笑っちゃうわよね」

「……」

「もうそんな余力なんてどこにも無いのに……」


 溺れるものは藁をも掴む。

 そういうことなのだろう。

 俺が地獄から抜け出るための、蜘蛛の糸に見えているのかもしれない。


 ポツリと床に雫が落ちる。


 思えば良いところのお嬢さんが、ダンジョンの様な危険な環境に身を置いているのもそれが理由なのだろう。

 家を支えるために、実入りのいい仕事を求めた結果なのだろう。


 そうして必死に支えてきた家に、今度は自分の身が売り飛ばされそうになっている。


「俺も金はありませんが」

「うん、知ってる」


 甲斐性はない。

 食い扶持は多い。

 かえって足手まといになるかもしれない。

 それでも……、それで彼女が救われるのなら……。


「あ、でも名前だけ貸してくれればいいから」

「へ?」

「後二年もすれば、私も冒険者としてガッツリ稼げるようになるしね。そうなったら好きにさせてもらうわ」


 神無月君は十六歳だから後二年は結婚できないしね。

 そう言って伊集院先輩は朗らかに笑ったのだった。


「それまで、婚約者としてよろしく!」

「……、はいはい。わかりましたよ。よろしくお願いしますね」


 俺は脱力しながら床に落ちた麦茶の雫を拭き取るのだった。



「でもごめんね?」

「何がですか」


 帰りしなに伊集院先輩が申し訳なさそうに謝ってくる。


「だって、これで高校三年間彼女作れないじゃない?」

「あ……」

「だから、これはその報酬ってことで」


 そう言うと伊集院先輩は俺の肩を掴み……。


「んっ!?」

「あはは、驚いた?」

「なっ!? なっ!?」

「あ、誰にでもするわけじゃないんだから勘違いしないでよね! 私の初めてなんだから!」


 そう言って伊集院先輩は走り去って行った。


 ……、俺も初めてですよ……。


 ドアが閉まっても、俺はしばらくそこから動けないでいるのだった。

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