希望の噺
ある世界の噺である。
希望は資源と同じ、物質的で形而下の物であった。
人々は、皆、そこに存在する希望を配っていた。分配し、共有し、それを持つことに誇りを持していた。
希望は人々に実体ある満足の実感を与え、そこに何らの疑いは無かった。
しかし、人々には次第に消え行く様に思えた希望を享受しない者も居た。
物質が物質である以上の業を批判したのだ。
物質より多くの意味をもつ希望を、人々に無限の可能性に満ちた拡大性を持たせる事を恐れ、得られる実感を幻覚であるとの烙印を押した。
希望は、少なく成り行き、そして燃焼されていった。
そのうちに、人々の間ではこんな事が喧伝される様になった。
希望は経験に対して逆進性を持つ、と。
これは明白な事実として、徐々に、観念を形成し、パラダイムへと変遷した。
人々は希望を配るのに躊躇を憶え、これを漸次的に利用しない事にする、と決意した。
希望は、放棄された草生す屍の如く、無為な遺産になった。
そして希望を持つ事は共同体からの村八分を講ずる御法度であると、完全に人々の間に認識された。
それからの人々は実感を得るためのオデッセイへ誘われた。それも、片道切符の放浪である。
示されたベクトルの向きを頼りに、その大きさを不安視しながら、歩いていた。
しかしながら、人々は強かった。健気であった。
食物連鎖の頂点に君臨する者として、脳幹に指図され、遺伝的プログラムに帰依する物とは一線を画す存在として、或いは理性の支配を受ける者として、何としても希望を配る生き方には戻れなかった。
遂に、人々は希望に勝った。理論の勝利である。
蓋し、勝ったかの如く見えた。
いや、確信が世界を覆っていた。言わば、普遍的な公式を創り上げた。
形而上学の勝利と誇示された新しい事実は、長らくの希望が無い世界を成立させしめた。
人々は過去を否定し、未来を信じる為の物を探し、「作り上げ」た。
自然界に存在しない人工物、「代替希望」は大いに人々の血液として酸素を運び、滞りの無い成長を支えてきた。
人々が創り上げたのは無機的な、冷えた鋼鉄であった。
代替希望の性質上、完成が認められなかった鋼鉄は、血液を消費し、分解して低分子化を繰り返し、無機物に冷え固まって行く。
実感を得る為の鉄鋼業は代替希望を生産し続ける為の、そしてこのスパイラルを保つ為の、人々の必要であり、要求だった。
だが、その生産活動に無限は無かった。
有機物の集合体である人間は、そしてその集まりである共同体は、鋼鉄から根源的な実感を得る事は無かったのだ。
一時的なまやかし物である代替希望は人々に恒久的で主体的な実感を与える事は無かった。
尚且つ、人々は実感の不要を証明するのに躍起であった。
人々は矛盾で秩序を失った。それも仮想社会の一説にあるが如く世紀末の形で。
再び、人々は希望を求めた。形ある実感を、有機的な形で齎す、過去の様な安定を。
その頃、永い風化作用を受けて忘れ去られた希望は、既に形を失った。
それからというもの、希望は別の形で人々に供給された。