一の五 僕は逃げ切った
僕は逃げ切った。なんとか無事に自宅に帰り着くことができた。温かい夕食にありつけたし、温かい風呂にありつけたし、温かい布団にありつけた。おかげで体調を崩すことから免れた。
幸いなことに、その日以降あいつとは遭遇しなかった。僕は平穏な日常を取り戻したのだ。
それからも彼女は祠の傍らに佇んでいた。僕を気味悪がって姿を隠すような素振りがなくて、少し安心した。なにもかもが平穏だ。
僕はもう一度、彼女に会うことにした。彼女との合意事項だ。なにも悪いことはしていない。
「や。こんにちは」
外は暑い。祠の周りは枝垂れ柳が西日を和らげてくれているけれど、柳葉を揺らすような風はない。いつも騒がしく鳴いている筈の蝉でさえ、蒸し暑さでだんまりだ。そんな雰囲気でも彼女の顔は平然としている。
「私が見えるのですね」
彼女がちらりと僕を見た。彼女の眼が、僕を見てくれた。
「他の人にはきみが見えないの?」
「見える者は、ほとんどおりません」
どきりとした。僕は嬉しい。彼女の姿をひとり占めしているようで。けれど。
「『ほとんど』ってことは、他にもいるんだ」
「平蜘蛛」
彼女の唇に紡がれた言葉が、蒸した湿気に乗って僕の鼓膜に染み込んだ。平蜘蛛。きっと、あいつのことだ。彼女と同じく、着物姿のあいつ。彼女と同じく、自分が見えるかと訊いてきたあいつ。彼女と同じく、雨に濡れないあいつ。
「もしかして、手足で走る奴のこと?」
彼女は頷いた。
なんなんだよ、あいつ。あいつが彼女のなんだっていうんだよ。
彼女は僕のことを知らない。でもあいつのことを知っているみたい。なんだこれは。嫉妬か。この感情は。
「一緒に、どこか行かない?」
「私はここを離れない」
悔しい。デートを断られたことじゃない。僕は彼女を知りたい。彼女に僕を知って欲しい。どうすればそれができるのか。解らなくて悔しい。
彼女が僕を観る。彼女の真っ黒な両の眼が、まばたきひとつなく、じいっと観てくれている。
「ここから離れようとすると、脚が重く動かなくなるのです」
蝉が騒ぎ始めた。
解っていたつもりだったけれど。彼女はやっぱり、地縛霊だ。