一の四 僕は逃げた
僕は逃げた。そいつから逃げた。目指すは古橋電停。ちょうど市電が停車中。横断歩道は青信号。
「乗ります! 乗りまあす!」
運転士は僕に気付いたらしく、一度閉じた扉をすぐに開けてくれた。運良く空いていた座席に腰を下ろして、上がった息を整える。もう、汗びっしょりの雨ぐっしょり、効きすぎた冷房に体調を崩されること間違いなしだ。立ち上がったときには、僕の尻の形が座面にクッキリ浮かび上がるだろう。鉄道会社の皆様、ごめんなさい。両脇に座った客が、さりげない素振りで僕と距離をとるのを感じた。客の人、ごめんなさい。
曇った窓ガラスを拭いとり、流れ始めた外を覗いた。あいつはいないようだ。どうやら諦めたらしい。
やがて次の電停に着き、扉が開いた。鼻を詰まらせた運転士の車内アナウンスの中、後ろの乗車口から乗ってきたのは若い女性がふたり。と、あいつ。
「ぎゃああ!」
そいつは女性の足もとで這うようにして乗ってきた。
「降ります! 降りまあす!」
僕は定期券を片手に市電から飛び出した。そいつは車内を這いずって迫りくる。電停は車道のど真ん中。自動車用信号は真っ青。お先は真っ暗。だめだ。逃げられない。
絶対絶命。
そのときだ。運転士が扉を閉めた。そいつが降りる前に。指差確認する運転士の白手袋が、太陽よりも光り輝いて見えた。そして市電は動きだす。
助かった。運転士は神だ。
でもまたすぐに、あいつは追ってくるだろう。逃げないと。そうだ、タクシーだ。タクシーで逃げよう。
僕は横断歩道を渡るやタクシーを呼び停めた。
「お客さん、どちらまで?」
「とにかく走ってください!」
ハリウッド映画みたいなセリフだな。なんて、どうでも良いことが頭の片隅に浮かんだ。
「解りました。シートベルトをしておいてください」
運転手も僕とおんなじことを考えたようで、にやりと笑うとすぐさま発車させた。
タクシー運転手という職業は、凄い。流石に運転のプロフェッショナルだ。赤信号を巧みにかわしつつ、現場からみるみる離れてゆく。通りという通りを、路地という路地を熟知している。自宅とは逆方向に走っているけれど、それはまあ些細なことだ。
あいつの脚は早いけれど、この運転手の操るタクシーには敵うまい。