一の十六 目の前に彼女がいる
目の前に彼女がいる。僕らは大甕の中から彼女を外に出した。ブルーシートの上に横たわっている彼女は、とても儚い。
父さんが彼女に手を合わせた。おっちゃんたちも、みんな手を合わせた。僕は彼女の小さな体を抱きしめた。
「行ってこい」
父さんが言った。父さんは、いつもの顔だ。いつもの飄ひょうとした顔で、僕を送り出してくれた。
僕は走った。ヘルメットの顎ひもを緩め、組まれた足場を抜け、現場を囲う白いシートをくぐり。祠へ。
平蜘蛛もついてくる。
「平蜘蛛、やったよ! 助けたんだ、、僕らは!」
「さすが、おぬしはわしが認めた男ぞ!」
珍しく平蜘蛛も上ずった調子で応えた。長い間、平蜘蛛が望み続けていたことなんだ。何十年も、何百年も嘘をつき続けてまで、彼女を慰め、励まし続けてきたんだ。支え続けてきたんだ。平蜘蛛の本望が今、遂げられたんだ。
枝垂れ柳が揺れている。その枝葉の先に、祠がある。彼女はそこに、いなかった。
「そうか。姫はもう、行ってしまわれたか」
平蜘蛛が言った。
見上げた空は浅葱の色で、雲が珊瑚の色になりかけていた。それらが少しずつ溶けて、菫の色に近づいてゆく。
「喜んで良いんだよね?」
平蜘蛛は空もまた見上げた後、ゆっくりと顔を僕に向けた。初めて見た平蜘蛛の顔は、穏やかな笑顔だった。
これは喜びの涙だ。僕の目から溢れているこれは、喜びの涙だ。
「ありがとう」
僕が呟いた言葉に重ねて、彼女の声が聞こえた気がした。




