一の二 彼女はほんの少し目を大きくさせた
彼女はほんの少し目を大きくさせた。驚いたようにしていたけれど。
「大丈夫よ」
彼女の言葉はそれだけで、またすぐに俯いてしまった。彼女の声は、美しい。
「いつもここにいるよね。どうして?」
失言だった。これでは毎日欠かさず観察していることがバレてしまう。この質問の仕方はまずい。まずいと思ったけれど、発した言葉は引き戻せない。染み出した汗が首筋を伝い、ぞくりと鳥肌が立つ。彼女は答えない。
「名前、何ていうの?」
これもヤバい質問だった。見ず知らずの女の子に、いきなり名前を訊くなんて。不審者だと思われても弁解できない。僕の顔はだらだらと汗を漏らし続ける。彼女は答えない。
気まずい。そうさせてしまっているのは僕なのだけれど。ここはひとまず自然な感じを演出しながら退こう。
「また今度、僕と話そうね」
我ながらおぞましいセリフだ。と、思ったけれど。彼女は頷いてくれた。
「じゃあ、またね」
振り返ったとき。僕は最高に気色悪い顔を、していただろう。嬉しくて。
ああ。僕は彼女に、恋をしている。名前も知らない彼女に。
僕が会いにくることを彼女は断らなかった。それはつまり、少なくとも僕を嫌悪してはいないということだ。良かった。
僕は満足した。満足した僕は川向こうの古橋電停に向かった。
みんながオバケ煙突と呼んでいる石造りの橋脚が、川の中に突っ立っている。橋桁はなく、橋脚の石垣だけがぽつんと佇んでいた。
オバケ煙突を横目に見ながら橋を渡っていたとき、向こうから何かが向かってくるのが見えた。大型犬が全力疾走で向かってくる。ように見えた。最初は。ドーベルマンみたいな。僕は思わず身構えた。でも違う。なんだアレは。どんどん迫りくる。判った。アレは人間だ。手足をついて走る人間だ。こちらに突進してくる。腰を落として。頭を低くして。ドーベルマンの速さで。
襲われる。
「ひっ」
腰砕けになって尻もちをついた僕。のそばを、しかしそいつは構わずすれ違い、走り去った。と思ったら、そいつはすぐに引き返してきて。僕の目の前で、止まった。
ヤバい。ヤバいっ。
「おぬし、わしが見えておるな」
「ひいっ」
喋った。こいつ、ヤバい。




