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三の一 殿は優しいかたです

 殿は優しいかたです。私は殿の優しさに甘んじて、田植えや麦踏みなどをさせておりました。水汲みもそうです。殿が断ったためしはなく、むしろ殿のほうから私を訪ねてきては、なにかないかと気にかけてくださいました。あまりに優しくしてくださるので、私は姫様にでもなったように思いあがり、無礼に振る舞うことさえありました。

「水汲みか。私も手を貸そう」

「申しわけありません」

「なあに。好きでやっておるのだ」

 好きでやっておるのだ。殿の口癖です。私はいつものように、この口癖に甘んじて水桶を殿に手渡すのです。殿は両手に水桶を提げて川へ向かいます。私は水桶ひとつ、殿の後に続きました。

 河原にいたる草むらの小道で、殿が急に立ち止まりました。なにごとかと、殿の背中越しに覗いてみると。大きな蜘蛛の巣がありました。しかし殿は、かまわずに蜘蛛の巣を払いのけました。

「殿! なりませぬ!」

 私は思わず声をあげました。地面に落ちた蜘蛛を踏み潰そうとするのですから。

「しかし、蜘蛛だぞ」

「しかしもなにもありませぬ。今は蜘蛛でしょうが、徳を積めば人に生まれ仏様にもなるのです。無闇な殺生はなりませぬ。今、この蜘蛛を殺めるのならば殿の来世は蜘蛛ですよ」

 私はどうにも虫が苦手です。しかしそれを殺めるのはもっと苦手です。私は潰れた虫を見たくないので、至極適当なことを言って殿を止めました。

「アヤは仏になれるな」

 殿は笑いました。たったこれだけで仏様になれるのならばだれも苦労はしません。私も笑いました。

「そなたの家を奪ってしまった。許せ」

 殿は蜘蛛に向かい、跪いて頭を下げました。殿様が虫に詫びるなど滑稽なことですが、殿はいたって真剣なのです。殿は優しいかたなのです。

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