一の一 夏だ
夏だ。
センター試験まで半年を切った僕らに夏休みなんてものはない。たかだか数十分の通学時間でさえ無駄にはできない。冷房の効いた市電の中は外より幾分マシだけれど、吊り革にぶら下がりながら踏ん張っていてはアルファベットの羅列が頭に入るわけがない。だから僕は、熱射を浴びて苦しそうにしている外の人たちを眺めていた。
大きな川に架かる橋のたもとに小さなお社がある。小さな祠と、これまた小さな鳥居があるだけでご由緒はよく分からない。
祠のそばにひとりの女の子が見える。たぶん、中学生くらいだろう。ただそれだけなら気に留めることもないのだけれど、その子は異様に目立っていた。群れなす白シャツのサラリーマンの向こうでただひとり、真っ黒な着物姿で佇んでいたから。浴衣ではない。着物だ。コスプレイベントかなにかだろう。初めはそう思ったけれど、思い当たる節はなかった。
ここ最近は毎日その子を観ている。市電から祠のほうを見ると、いつもその子がいる。全くおんなじ場所に。全くおんなじ姿で。
今朝は土砂降りだった。だから流石にいないだろうと思った。けれどもその子は。いた。おんなじ場所に。おんなじ姿で。彼女の頭の上に雨を遮るものはなにもない。異様だった。
もしも今日、帰宅するまで彼女がいるのなら。僕は彼女に近づこう。少し訊いてみたい。どうしていつも、そこにいるのかを。
夕方になっても土砂降りが続く。
課外授業が終わり、僕は市電に飛び乗った。橋の手前、祠の前を通り過ぎる。そして、その子はやっぱり。いた。
僕はすぐに降車ボタンを押した。次の電停は川を渡った先、交差点のすぐ向こうだ。赤信号で停車している時間が、もどかしい。
古橋電停で降りるのは初めてだ。祠に向かって橋を歩く。透明なビニール傘の上で跳ねる雨粒のように、僕の心臓は高鳴った。
もうすぐそこに彼女が見える。雨の中に彼女が。いる。
学生カバンを握る指先がじんじんと脈打つ。なんと声をかけようか。こんにちは、とか。あいにくの雨ですね、とか。バカみたい。考えていなかった。けれども僕の脚は、止まらない。
「きみ、大丈夫? 傘もささないで。風邪引くよ」
俯いていた彼女が顔を上げた。僕に反応してくれた。そのとき、僕は気づいた。彼女のおかっぱ頭の黒髪が、これっぽっちも濡れていないことに。