87. 険道パラクレートス
俺は困惑していた。同行しているアステールの機嫌が悪過ぎるのだ。リンミからの長距離転移で近場の街へ転移し、理力術を扱える魔術師と魔法騎士の二人連れゆえ飛翔してやって来たのは険道パラクレートスと呼ばれている長大な山脈めいた石壁だ。鬱蒼とした森林が繁茂する中を石壁が東西に続き、アガソスは冬のはずなのだが雪が見当たらない。狂土エムブレポから旧アガソスのティリンス地方への浸透を防ぐのなら落とせない前線、らしいのだが。
「はー……はー……」
アステール自身も目を閉じて大きく深呼吸し、気を鎮めようと努力してくれてはいたのだが。
「ねえ、アステール。怒ってるのは解るから言いたい事言ってみたら」
「憤激を抑えてばかりいては身を害するぞ、アステール。正当な怒りであるなら身を委ねたらどうだ」
俺が腰に佩いた鏡の剣からは両親がアステールを煽る声がしてな。父が無責任に適当な事を言うのは諦めているが、母が淡々とした声でアステールを煽るとは正直意外だった。母なりに鼓舞しようとしたのかもしれない。結果はアステールの忍耐力が尽きた。投げ捨てられた。
「カーッ!! 嘆かわしいッ!!」
爆発したのはかつては快活げだった生前のアステールめいた雰囲気だ。物静かな亡国の公爵と言う役をかなぐり捨て、怒鳴りながら唾を吐き、不機嫌の根源へ向かって行く。長弓を手に取り、矢筒からは鋭利さを付与によって強化した矢を取ろうともする。
「おい、アステール。いきなりやるのか? 意欲は買うが最低限の説明はしろ。貴様を怒らせているものは一体なんだ?」
「夏の権能じゃ! 出征前に説明したぞ、ミラーソード!」
夏の権能だと言われ、俺は内心で首を傾げながら険道パラクレートスを見渡した。視力が足りないのかと疑って変成術を用い、視力も強化してみた。
「俺には石壁が森の中にあるようにしか見えんぞ」
「であるから、イクタス・バーナバの権能が及ぶ版図と化しておるのよ!
険道パラクレートスは既にエムブレポの版図の内じゃい!」
「そうなのか」
「そうなんだ」
「なるほど」
怒り心頭のアステールを前に俺達親子の声が少々間抜けに響く。危機意識の差が如実に出た。アステールから受けた夏の権能の話だと、境界線を押し返すには侵略を受けたよりも三倍の時間が掛かるのだったか。
「早急に焼くぞ、手を貸せい!」
「石壁は壊してもいいのか?」
戦術級爆撃魔術で隕石でも落としてやろうか、と思いつつ言えばアステールが首を横に振る。
「パラクレートス線を壊してしまってはこんなもんでは済まんじゃろう。森だけ焼く」
「要は森さえ殺してしまえば良いのだな?」
アステールは焼く事に拘っているが、俺なら毒を使った方が速い。
『焼く』ではなく『殺す』と言った俺にアステールが訊いて来る。石壁ごとでもいいなら『溶かす』か『腐らせる』と表現した事だろう。
「何をやらかす気じゃ、ミラーソード」
「俺の得意技を。父も手を貸してくれるな」
「はいはい、鏡はミラーのお手伝いなら喜んでするよ」
俺は鏡の剣を抜き放ち、アステールよりも前に出る。
「俺の前は飛ぶな。貴様に耐性があっても装備はそうではない」
眼下に険道パラクレートスを見下ろし、相応しい毒を俺の奥底にある腐敗の異能から選び出す。血の力と術を総動員し、地域一帯の魔素を無遠慮に掻き集めてかっ喰らう。結構でかい術式になりそうだが、連打ができない程度でしかない。即興で組み上げた術式の補強を父に求め、より強固に編成する。変成術に関して俺は権威を名乗れる術師だ。更に増殖と創造の異能から引き出した力も加えてやる。
「貪欲なる腐敗の種子よ、そなたに夏の版図を贄として与えよう。染み、喰らい、腐食し沈めよ。我は際限なき増殖をそなたに許す。我が命により産まれ出でよ、夏喰らい!」
俺がこれだけ長く呪文を唱えるのは異例の事だ。魔力開放量の上限一杯まで使ったからな。術としては生命創造だな。夏の権能が及んだ版図の攻略に特化した眷属を産み出してやった。スライムである俺の眷属もまた当然スライムだ。落下速度を緩和してやった馬鹿でかい黒い塊が森へ向かって降下して行く。
更に元素術と変成術の複合術を詠唱破棄で行使してやれば腐敗の雨が密林へと降り注ぎ枯死と腐敗を促す。腐敗の邪神と水神アディケオを奉じる俺であればさほど困難な芸当ではない。現住種族であれば乳離れしようとする子には離乳食を用意するのだろう? 俺の血統に乳幼児期と言うものはないが、そんなものだ。
着地したスライム―――夏喰らいは猛然と食事に着手した。夏の権能を嗅ぎ分け、植物のみを喰らうように刷り込んでやった俺の子分だ。暴走状態で適当に産み散らしたら何やら遊んでいた暢気者のジュエル スライムとは格が違うぞ。俺が異能と魔力を注ぎ込んだ魔術で産み落とせる眷族としては最大限の力をくれてやった。
「夏喰らいには夏の権能の版図を喰うように言い付けた。
推定二日ほどで一掃し、前線を押し込む。焼くよりは速いのではないか」
「『際限なき増殖』の下りは制御できるのじゃろうな……」
アステールは落ち着いてくれたようだ。矢を矢筒に戻し、俺を問い質す。
「俺の子分だぞ。俺の命令は聞く」
「そうね。あんまり頭はよくないだろうけどお仕事には熱心そうよ」
俺と父が言えば鏡の剣からは母の声。
「ミーセオ駐留軍の報告は戦果を誇張し、被害を極小化していたようだ。
ミーセオの陣地は遥か後方ではないか。督戦は私が得意だ、任せないか?」
……そうよな、その手の仕事なら母以上の適任者はおらんな。
「儂としても絞め上げてやりたいのじゃがな」
「認識欺瞞していても悟る者はいるかもしれん。
アガソス滅亡時にミーセオ兵を何人殺したか自覚しているか、アステール?」
「ほんの三千かそこらじゃい。時間がなかったからの」
三千は第一使徒が一般兵を相手に殺戮を繰り広げた数字として多いのか、少ないのか。俺は知らん。あまり知りたくもない。生前のアステールを抑える為に相当数の犠牲が出たとは知っていたが、犯人の自己申告が三千だと言うのは今聞いた。
「俺が三千も喰えたら悪酔いしそうだ」
「欲しくば与えてやろうか、我が子よ。そなたの臣民でなければいいのだろう」
鏡の剣からは滴る毒のように甘い母の声。魅力的な内容も相俟って、暗黒騎士の呼び声に頭がくらつく。先日、何が俺を怒らせたのか知った母は外征で俺に喰わせる命を刈る機会を虎視眈々と伺っているようだ。
「父よ、母を借りてもよいか」
「いいよー。現地に着いたら近くで着替えたらいいんじゃない」
こんな事もあろうかと母の装備も持参してはいる。あまり出す気がないダラルロートの装備も魔法鞄の中にある事はある。
「あぁ。久方振りの督戦だな」
母は愉しそうに、とても愉しそうに鏡の中から言った。




