82. 4日目 - 母と父と母
鏡の中の父の住まいで寝台として世話になっていた大きなスライムの体躯を撫でてやれば、伸ばした触手をふるふると俺に振ってくれた。彼もしくは彼女には別れの挨拶だと察してくれるほどの知能があるのだろうか。黒い炭酸水も橙色の果汁も白い発酵液も、どれも俺好みの飲み物だった。引き篭もるには最高だった仮宿暮らしが名残惜しくはある。
だが、俺はミラーソードとしての主導権を取り戻しに行かねばならぬ。父の不興を買っても、母の憤激を浴びせられても、いずれにせよ冥府への旅路を逝く事にはなるであろうが……。二人の母に喰らわれた七人のリンミ市民よ、犠牲に相応しいだけの国葬は執り行ってやるからな。
「……やば!」
母による強襲を受けた時、父の反応は実に軽かった。シャンディは見当たらず、ヤン・グァンは法衣を幾らか解いてミーセオ風の座布団を積み上げた上に横になっていた。卓上にはミーセオの遊戯盤と酒や肴。四人で飲み明かしていた雰囲気である。
「おや、おはようございます」
「ぁぁぁぁあああ!!」
問題はリンミの大君ダラルロートだ。整えた長い黒髪をして大君の身形をした中年の男を前に、母の突撃が停止する。力強く突進した脚は恐怖の為に瞬時にして萎え、苦悶の叫びが母の口を突いて出る。ダラルロートの姿は半ば以上、透けていた。俺は知らんぞ、こんなダラルロート。三人目までは知っているが、四人目なんて知らない。こいつか、ダラちゃんとやらは。
「あ、良かった」
銀髪の魔術師はあっさりと安堵した。してしまった。
ダラルロートに対する恐慌で母が足を止めたその時、詠唱破棄した長距離転移なり何なりで脱兎の如く逃げるべきだったのだ。父に残されていた逃走の機会は母が恐慌に陥った瞬間にしかなかったと言うのに。
俺の母はもう一人いる。崩壊した壁を超え、疾駆して私室を横断し、鉄槌が父の即頭部へと一直線に伸びる。腐敗を帯びた母の鉄槌は軽々と父の頭蓋を振るわせ、強かに殴り飛ばした。
邪視を持つ俺の目には命あるものの臓器と血管が透けて視える。父の脳は母の槌の揺さぶりを逃れようとして少々姑息に動いたが、逃げ切れる揺らされ方ではなかった。俺達は現住種族とは身体構造が違うとは言え、攻撃側と防御側が同族ならばこうもなる。情け容赦ない、殆ど殺す気にしか見えない一撃だった。
「よし!」
「……ぅ……を……」
分体は笑った。俺の母なりに清々しい笑顔なのかも知れんが、怖い。
幽霊恐怖症の影響下では左肩の烙印の槌を戦闘目的で動かせるだけの母が何事か苦しげに言う。分体は視線のみで応じ、ヤン・グァンに戦槌を突き付けた。ダラルロートは何もせずに様子を見ており、明らかにおかしい。四人で呑んでいたにしては三人分しか杯や皿がないし、この男が無害だなどと言う現実がまず有り得ない。
「ヤン・グァン。答えよ」
「……ミラーソード様、ではありませんな。銀の御髪がない。
ミラーソード様が大君殿の幻影の影響を受けないはずもない」
座布団に寝転がったまま片目のみを開き、ヤン・グァンは母に言った。三人の腹心の中で一番頼りにすべきなのはヤン・グァンだと思う。俺では母相手にこんな態度は取れない。
「隣の寝室でお父君の治療を致しませんかな。
シャンディ嬢ちゃんが寝ておりますが、起こしても構わぬでしょう」
「治療はまだよい。ダラルロートの幻影をどうにかできぬか?」
「臣には不可能かと。ミラーソード様の魔術であれば消し去れるのでは」
「透けたもの相手に我が子は無力だ」
「……然様ですな。その幻影は簡単な受け答えをするだけのものですぞ。
お父君が命じない限り、自発的に移動はしないかと」
「……良かろう。指示するまで治療は不要だ。待機していろ」
分体は暫し考え込んだ後、気絶したか死んでいる父を抱え上げて別部屋の寝室へ連れて行った。抱え上げる手付きは優しげだったが、殴り倒した張本人がやったと知っている息子としては微妙な気分だ。分体は抵抗しようとしたシャンディを殴打して気絶させると寝室から放り出し、俺の肉体に幽閉された母に腕を伸ばす。扉を跨げば母が不完全ながらも正気付いた。
「さあ、宿願を叶えよう」
「……死体でも構わぬのだったな?」
「さて。息はあるがな」
父はまだ死んではいないよ。父が逃げ出したら長期戦を覚悟しなけりゃならなかったがな。二人の母は手際よくやったものだ。
鏡の剣に繋げられた蛙の玉飾りを意識し、俺はアディケオに祈る。どうにか上手くやらせて欲しいと。俺の中の不正と腐敗と堕落を束ねて拵えた不細工な玩具めいた小道具に触れ、分体の腰に佩かれたまま適切な時を待つ。おっかねえが、やる。俺にはできる。多分できる。きっとできる。こんなのはただのちょっとした詐欺だ、不正神の第三使徒たる俺ならできる。術や血の力としてではなく異能をそのまま使うのがちと不安ではあるが、俺にはこれしかできん。俺の親には言葉で説得なんかしたって通らんのだろ。仲裁は上位者が力付くでやるしかねえ。父の住まいの中、一人立って上に見える世界を睨む。
俺の事は忘れてんのか、母と父と母よ? ……いや、覚えられてはいるんだな。分体が鏡の剣を鞘から抜き、二人に鏡の刀身が見えるように捧げ持った。
「なあ母よ、これが望みなのか?」
「そうだ」
呼び掛ければ分体が応えた。本体は俺に目もくれない。
「神子よ」
俺の肉体を使い父に跨る母の声には精神体の身に震えが来た。今まで聞いたどんな母の声よりも熱の伴った声。左肩から生えた灰色の烙印は翼状だが、鋭さはなくだらりと垂れている。
寝台の中心に寝かされた父は意識を取り戻す様子がなく、まだ脳震盪の影響下だ。当分は動けまい。分体も父に惹かれた様子で寝台に上がる。
「鏡の剣になど宿って生き延びたそなたが悪いのだ。
そなたが生きていると言うのに、どうして私ばかり死ななくてはならぬ。
おかしいであろう? 見放され、空の器となった私を我が神は満たして下さった」
「そうとも。我が神の命には応えねばならぬ」
愛を囁くと言うより恨み節の吐露に聞こえるのは俺の耳が悪いのかね? 父に触れながら言う母の顔がここからだとよく見える。
「晩にノモスケファーラの声を聞き、神君の遣いが殺されて確信したよ。
私はこうするべきなのだと。私に下された我が神の御意思でもある」
「神子をその子共々異界へ連れ帰る前の役得は認めて頂けようさ」
今言っているのが母の本当の目的らしいが、俺にとっちゃ迷惑なこったな。俺はこっちでよろしくやってんだよ、爺さんだか婆さんよ。おそらく父も同意見だと思うがな。薄い褐色の肉体に覆い被さり絡み付く白い肉体を眺め、創り上げた異能の塊を掲げて呟く。今回俺はアディケオには祈るが、邪神には祈れない案件だ。
「俺は誰の望みを叶えるとは言ってねえ」
「そうね」
俺の後ろから声がした。小柄な生き物に抱き付かれる。
「一人じゃ厳しいけどね。アステールにはまだ望みがあるのよね?」
「そうだ」
「……借りが増えるな。覚えてはおく」
亡国の公爵の声が横からした。姿はない。
「ダラちゃんはどうよ?」
「どちらでも……と思いますが、我が主はミラーソード様ですのでねえ」
「そうかい」
公爵の反対側から化け物の声までした。こちらも姿はない。
「ようし、これで四対一だ。負けはしない」
「今なら四対二ではないのか?」
「大丈夫。あいつ、友達いないから。やっちゃっていいよ」
父の言い草に俺は少しばかり母を哀れに思ったが、本体との接触を回復させた。分体二つも吸収してやる。
「かーちゃん以外の全てよ」
「アガシアよ」
「アディケオよ」
「愛に哀れみを」
「欺きに援助を」
三者三様の祈りが聞こえた。母の行動が邪神の命令だと言うのなら、こうするしかあるまいよ。偽りの命令を書き込んだ異能を手に、俺は母の懐に潜り込んだ。怒られるかどうかは……日頃の行い次第かね。
「こいつは多数決って奴だ、母よ」




