8. 悪巧み以前の問題
「鏡よ、俺にはもっと命が要る」
洞窟の奥で観想を終えて家に戻り、彼女を膝の上に招いた俺は鏡に良い思案はないものかと問い掛けた。より多くの命。それが今回の観想で掴んだ、俺に必要なものだ。
「そうねー。ミラー的にはどうなの? 喰らった命の量が足りない感じ? それとも質の問題?」
「両方だ。全く足りていないと感じる。野獣では命の足しになっているのかどうか」
「ああ、それじゃ両方必要なんだなあ。魔素に関してはどうよ?」
「魔素の吸収に問題は感じていない」
「そうかあ、ううむ……」
魔術師としての技術の一部として、俺は魔素の吸入には特別優れている。鏡に学ばずとも上手く扱えた程度にはよく親しんだ才だ。静謐な自然深い山中に満ちる魔素をほぼ俺一人で独占し、俺の縄張りでつまみ喰いをしようとする不埒な賊は魔獣だろうが霊獣だろうが叩き殺して喰らう。縄張りを侵す者には死を。俺はそうして生きている。
「そうなると、蛮族を喰い殺すのがいいんだけどね……」
「やはりあやつらか……。餌にしか見えないのは確かなのだが……」
「蛮族はなー……獣と違って下手にやるとお化けになるんだわ……」
重苦しい空気が流れる。俺は黙って両手で耳を塞いだ。
心が落ち着くまで暫く耐える。超重篤幽霊恐怖症と言う、誰に刻まれたのか知れない烙印は俺をとてつもなく重い足枷で水底に沈めている。手を下げ、膝の上の彼女を撫でれば指に触手を絡めてくれた。とても愛らしい。とてつもない怖れは決して消えないが、確かな温もりを感じられる。
「神聖と暗黒と言う区分は魔術師にとって実に胡乱なものであると言う話はしたよね?
復習だ。聖なるものと邪なるものは奉じる神の主観によって大きく左右される。
ある神にとっては“清らかにして聖”なるものが、他の神にとっては“不浄して邪”であったりする。
まあ、生物を癒す術は多くの神にとって神聖扱いだし、傷付ける術は暗黒扱いだね。
君が暗黒騎士を自称しても問題ないのは聖と邪の両方に充分に長けているからだ。……あの致命的な一分野を除いて」
俺はさっと両手で耳を塞ごうとし……葛藤した。彼女の触手を振り払っては嫌われないだろうか、と。俺の指先を包んでくれている手を振り払うなんてとんでもないと主張する俺に譲り、必死で震えに耐える。こうして会話に出るだけでも本当にダメだ。
「死霊術を使おうとするだけで恐慌状態だもんね、ミラーは」
「あの系統だけはこの世から件の胡乱な者共を消し去った後に根絶させるべきだと確信してはいる……」
「死霊術を根絶した後にお化けが自然発生したらどうするんだいミラー」
「そんな恐ろしい話をするんじゃない、鏡よ!!
とにかく俺にはその、例の何がアレする系統だけは本当に、絶対に、その……いかんから!」
「鏡のお話だけでこれだよ」
最早完全に取り乱して俺が叫ぶ。その恐ろしげな単語を平然と言ってくれる鏡が信じられない。鏡には禁忌意識がないのか!? 彼女の冷たさと弾力に縋り、半ば泣き叫ぶ。
「まあいいミラー、復唱は勘弁してあげるから小鹿のように震えたまま聞きなさい。
死霊術の領分は魂だ。命を喰らわれた生者を正しく弔うのが死霊術なら、その亡骸を私欲の為に悪用するのもまた死霊術だ。
善神なら弔いに用いられる死霊術を神聖に分類し、亡者の作成に用いる死霊術を暗黒に分類する。邪神だと逆になる場合がある……ミラー、聞いてる?」
「いやだ、生理的に受け付けないッ!!」
ああ……恐怖の緩和に回せる余力が心許ない。
「落ち着きなさい、術を使ってもいいから。心を騙し、支配する術はだいたいは暗黒に分類される。恐怖を和らげ、或いは事前に防ぐのは神聖に分類だね。
君は両方とも得意だろうに……。恐怖を治療する術の準備は手放せないよね」
既に何回やったと思っている、鏡め! のた打ち回りたい怯えを彼女を抱き込む事で耐える。
俺は生来の烙印を魔術で克服しようと恐怖耐性を得る護符を作った。何個も何個も。犠牲を捧げて大儀式までやった。
殆ど効かなかった。俺に作れる護符の効力よりも弱点の凶悪さが上回り、意味を為さなかった。お化けだけは本当の本当にダメなんだ……。
「大の男がこうしてのた打ち回ってはいるけど自称暗黒騎士なんですよ、お嬢さん」
俺の耳に鏡の嫌味は聞こえていたが、脳にまでは届いてはいなかった。
俺を脅すのに人質など要らぬと思う。お化けの話をされるだけでこのザマだ。耐え難い恐怖から逃れる為に俺は自分自身を気絶させた。