77. 4日目 - 神君の遣い
「じゃーね、僕は寝るから。明日の昼には顔を出す」
そう言い捨て、父はダラルロートらしき声の主とシャンディとヤン・グァンらを連れて意気揚々と磔刑場を後にしたらしい。直接には一度も姿を見せなかった。それが3日目の最後だった。
俺はどうしたらいいんだろうな。鏡の剣の中から出たくない気持ちばかりが募る一方だと言うのに、とうとう4日目を迎えた深夜に母が語り掛けて来た。母の声は静かで、俺を諭すような色がある。
「喋れないはずはあるまい、ミラー」
鏡の剣の中、心地よい父の住まいでスライムに身を預けて眠っていた俺はびくりと震えて飛び起きた。母の声だ、と認識した途端に怯え疲れて眠っていたはずの俺は覚醒してしまった。母の声を無視して眠り直す事はできそうにない。だが、俺は鏡の剣の中から外に干渉する手段を知らないのだ。三日間だんまりを決め込んだのはやり方を知らないからだよ、母よ。そうは思っても伝わらないらしい。
「……三日間に渡って何の接触もないとは思わなかった」
すいませんね、母よ。息子は本格的な臆病者だよ。
父が建てたらしい磔刑場の中。魔法陣の中心で上半身は裸身のまま磔にされた母が言う。両肩から生えた灰色の翼状の烙印が動き、先端を細く尖らせて母の額に張り付いていた頭髪を器用に梳いた。俺は母を失望させたらしいぞ、と察すれば魂を締め付けられる思いがする。
「聞いてはいるはずだな。……聞け。神君の遣いが来る」
神君? 聞き覚えはある、あるが……規律神ノモスケファーラの分霊を指す語だ。かつて堕ちる前、母が聖騎士として、第一使徒として仕えていた神だ。
「遣いにさほどの力はないが、戒められたままでは少々拙い。
戒めさえなければ遣いなど直ちに縊り殺す」
母はそう言うがな。鏡の剣の中から少々視点を変えて磔台を見る。複雑な術式が幾つも幾つも細かな文字で連ねられた磔台には清浄な魔力が強く付与されている。母が使う不浄な恩寵を封じ込める目的で造られたものだ。俺の魔術で解き放てるのかは解らんよ。そもそもこの三日間、俺はただの一回も術を使っていない。発動遅延させておいた幻術を起動しただけではないか? 俺はやり方を知らん。
「でしたら、安心してお話しできますね」
「でしたら、お時間を頂きたいですね」
その時、間近から聞き慣れぬ声がした。視点を戻せば母の正面に二匹の見慣れぬ獣がいる。何者かの召喚術で送り込まれて来たのだろう、消え掛けた召喚陣が俺の目に入った。
「くっ……聖獣だ、ミラー」
母は聖獣と呼んだが、俺の知識にはない。何しろ二匹とも半透明だ、幽霊恐怖症持ちの状態で俺が目にしたら間違いなく即座に卒倒する。母も幽霊恐怖症のせいでまともに口が利けまいよ。頭が鷲で、胴体は獅子。翼も鷲だろうか。そんな魔獣らしき半透明のものが二匹いる。
「「ノモスケファーラが我々を遣わされました」」
二匹が声を合わせて唱和する。規律神の遣いだと。
「ノモスケファーラは第一使徒の帰還をお望みです」
「ノモスケファーラは第一使徒を御赦しになります」
二匹の獣の声に母の表情が歪む。烙印の両翼が鋭い灰色の剣のように変形して激しく打ち下ろされ、獣を貫こうとした。充分に速い一撃だったと思うが獣二匹は跳び退って回避した。かなりの俊敏さだ。
半透明なものを目にして幽霊恐怖症の影響下にあるはずなのに何故攻撃などできるのだ、母は? 俺なら何を言われても怒りに任せた攻撃などできる気がしない。ただ怯えて蹲り、卒倒するだけだ。
「返答は拒否ですか、名を喪った聖騎士よ」
「拒否は認められておりません、名を喪った聖騎士よ」
羽ばたいて母の翼が届きそうにない所まで下がり、獣二匹が声を合わせて言って来る。そこまで強そうではないのだが、幽霊恐怖症の影響下では厳しい。俺なら何もできなかった。母も言葉を返すほどの余力はないようで表情を恐怖に染めている。干渉した方がいいとは思う、思うが―――どうやって? やり方を知らんし、思い付かん。
母との接触を回復させるのは不正解だ。俺と母が共に幽霊恐怖症のせいで身動きできなくなり、透けた獣のいいようにされかねない。俺は鏡の中からどうにかせねばならんのだ。父の住まいの中で思考を加速させる。父にはできていた事だ。俺はどうすればできるようになる?
「処刑を執行致しましょう。裏切者には死を」
「処刑を執行致しましょう。幸いにして刑場です」
幾ら母が強いと言っても磔にされたままでは拙かろう。磔から解放しても幽霊怖さに動けないのだから意味がない。
今、俺の本体は暗黒騎士としての力を大きく引き出しているせいで魔術は哀れなほど貧相なのだがね。暗黒騎士ミラーソードとして知られた大魔術師としての全力に較べたら雀の涙、シャンディにすら劣る。詠唱破棄に多段詠唱と多重詠唱と言った俺の魔術師としての常識を構成する要素が何もないのだ。お陰で鏡の剣の中から術を使う方法が解らない。擬呪とも呼ばれる血の力は全くダメだ、俺は精神体で血の通った肉体を統制していない。
ちらりと試したが、母との接触を回復させなければ力の源泉から引き出す力の比率変更は行えなさそうだ。今の俺にはダラルロートの幻魔闘士、アステールの魔法騎士のどちらにも接触できない。
獣二匹が左右から飛来し、烙印の翼による防御を掻い潜って母に嘴を突き入れ、爪を振るう。翼は母の影響を受けないのか攻撃と防御を行おうとはしているものの、獣の速さを捉え切れていない。晒していた上半身の肉が引き裂かれ、黒っぽい俺の血が流される。現住種族とは身体構造の違う俺にはさほどの痛手ではなかろうが、喰らいっ放しではいずれ死ぬ。
「ミラー」
苦しげな母の声。俺としても対処はするさ! もどかしく思いながら意思を束ねて術式を準備する。準備自体も酷く遅い。魔術師としての技量が低過ぎるのだ。使えると思っていなかったので何の準備もしていなかったんだよ、俺は。どれほど弛んでいたのか。
それでも恩寵を受けた系統の術であれば準備できた。水神としてのアディケオに注がれた水の恩寵に頼って治癒術を行使する。
「生命の恩恵を我が母に注ぐ。治癒」
集中し、簡潔な呪文を唱えて鏡の外の母へと手を伸ばす。治癒術であれば暗黒騎士にも扱える。単純な術であっても回復力は低くなく、獣二匹に傷付けられた俺の肉体はたちまち傷を塞いだ。魔術師として全力の俺ならこれしきの下級術は一手で数え切れぬほど使うのだが、今は一回が精一杯だ。二重詠唱すらできん。非力さに歯軋りする。
治癒を受けた母は左の翼を変形させた。剣ではなく、槌のように。母が最も得意とする武器に。右の翼は盾めいて大きく広がり、獣に対して立ち塞がった。
「これは、喰い切らねばならないようです」
「これは、炎で焼くべきでしょうか」
獣は火まで噴くのか!? 火炎耐性を準備すべきか俺は焦る。元素術を極めて水の恩寵を受けている全力状態の俺にとって火炎への耐性は難しい術ではないが、今の俺には優先順位が解らん。そもそも何をどこまでできるのだ、鏡の中で? 俺は三日間の引き篭もり生活を本気で悔いたが、反省は後でする。今は母を護らねば!
「絶えざる生命の恩恵を我が母に注ぐ。持続治癒」
獣二匹から何が来ても問題ないよう持続性の治癒術を鏡の中から投げ掛ける。時間は掛かるがじわじわと負傷を癒す。母の灰色の槌が獣の一匹を打ち据えたが、まだ決定打ではない。一匹は再び飛来して盾を掻い潜って母の肉を抉り取り、もう一匹はその嘴を大きく開いて白い炎を吐いた。白は聖火だ! 純然たる元素術ではなく退魔術の領分だ。
恐怖の中でも炎に巻かれて不快げにする程度で済ませる母は本当に強い。どうして俺は母とここまで違う生き物として生まれてしまったのか。火炎耐性で防げる炎ではなかったぞ、今のは。危うい所で間違わなかった判断に不安を軋ませつつも治癒術を投じる。
「生命の恩恵を我が母に注ぐ。治癒」
何故こう、下級術を一発ずつしか行使できないのか! 不便だ、もどかしい。俺の実力はこんなもんじゃないぞ! 俺が本体を使って全力さえ出せるならこんな奴らは―――幽霊恐怖症で動けなくなって食い殺されるのがオチだな。ああ、解ってるよ畜生。
母の両肩から生えた槌と盾が均衡を崩してくれるのを期待するのは難しそうなのでな。息子として知恵を絞らねばなるまい。準備すべき術は何だ? 鏡の中の卑小な俺には治癒術以外に何ができる?




