75. 3日目 - 父が来ない
それでも日は昇る。俺は鏡の剣の中で暮らして3日目を迎えた。
父は強大な魔術師だ。疑いようもなく魔力は強大であり、魔術の限りを尽くせば小国一つ乗っ取るなど造作もあるまい。大国には手を出さないと思う。強敵からはまず真っ先に逃げようとする。父は臆病なのだ。
母は強いし、美しい。支配されていなくてもそう思う。暗黒騎士としての力は人民の大半を凝視なり接触のみで堕とし、高位の神の使徒とも互角以上に渡り合う事は疑いない。神の恩寵で器を満たされ、意志を持つ災害にも等しい第一使徒が相手であっても勝つ気で戦うだろう。
俺は二人の子だ。父はうちの子と、母は我が子と呼んでくれる。姿は母の写し身だと神の分霊にも言われた事がある。しかし、気質は父に似てしまったらしい。俺は今、外の世界が怖くて堪らない。
磔刑場に誰も来ないままに昼前を迎えようとしていた時、ようやくシャンディとヤン・グァンがやって来た。父の姿はない。
「どうするの、ヤン・グァン」
「正直な所、参ったの……無理矢理に食事を摂らせられる相手ではないぞ」
磔にされた母を前にして、シャンディとヤン・グァンの二人が話し込んでいる。遠巻きにするリンミニア魔術師団と聖火教の教団兵は油断なく杖なり槌を構え、有事に備えてはいる。……戒められていなければ母を前にしては一瞬で壊滅する程度の戦力でしかないのだがな。俺の母は強過ぎる。
磔台の前には母に拒まれ、腐敗した小鍋や匙だったものの残骸が錆となって染みを作っている。給仕しようとした教団員は父にそれほど強く支配されていなかったのか母の一瞥を受けただけで動けなくなり、後方に下げられて治療を受けている。どうやらリンミ市民の中で母の前に正気で立てるのはシャンディとヤン・グァンだけだ。
「食べさせないとミラーソード様の肉体が飢えるじゃない」
「交渉してみるしかあるまいな。この悪霊は抑え難いまでに強大だが、交渉を受ける気が全くない訳ではないからの……。万一の場合は頼むぞ、嬢ちゃん」
「可能な限りの支援はする」
シャンディが幾つかの支援・強化の魔術をヤン・グァンに施す。ヤン・グァン自身も自らの守護を正属性と悪属性に関わる複数の神々に対して請い、教団員らは高司祭に指揮されて聖句と経典を唱え始める。俺の肉体に幽閉されて磔になった母は黙り込み、両眼を閉ざして沈黙している。雰囲気は俺の処刑か葬式だ。
「のう、悪霊よ。貴公、呼び名はないのか。真名でなくとも良い、呼ばれたい名があれば教えてくれんかな」
数珠を通した両手で杖を持ち、進み出たヤン・グァンが母に問い掛ける。俺の母には名がない。名を喪った母。喪った、と言われている事からかつては名があったはずなのだが、俺も母がかつて何と言う名で呼ばれていたのかは知らない。スライムに腰掛け、撫でると白く発酵した匂いのする汁の湧く丼から甘い汁を啜りながら俺は外界の成り行きを見守る。母は目を見開き、抑揚のない声で短く答えた。
「私に名はない」
「それよ。かつて規律神ノモスケファーラの第一使徒だった者の名は記憶からも記録からも悉く喪われておる。強大なる魔法により世界から永遠に喪われたのだ。誰一人として貴公の元々あった名前を思い出せぬ。記録されているはずの箇所は悉く黒く腐り、或いは黴ておる。いかなる神の力によるものなのか、不可思議な事よな」
俺達の血統の祖、異界より訪れた腐敗の邪神の神力であろうな。
俺と母の信奉する神でもある。強大な邪神だ。司る権能は腐敗、堕落、創造、増殖と聞いた。母の顔と姿は知られているらしく、何人かに『ノモスケファーラめの使徒』だの『ノモスの犬』と呼ばれた事がある。だが名前は一度も聞いた事がない。父の口から母の名が出た事もない。応えない母を前にヤン・グァンが続ける。
「幾つもの国を攻め陥として契印を奪い取り、ノモスケファーラに捧げた聖騎士だった事は知られておる。バシレイア貴族を伴って向かった狩猟行を最後に失踪し、霊泉の森が枯死の森と化した原因に関与しているとも言われている。貴公で間違いないな?」
白い顔で母が薄く―――本当に薄くだが笑った。俺は咽た。幽霊恐怖症を母に押し付けた今、俺は母が怖い。
「私は暗黒騎士だ」
「元は聖騎士であった暗黒騎士の男が何故ミラーソード様の母だと言われておるのかまではこの司教の理解が及ぶ所ではないがの。
暗黒騎士殿よ、せめて食事くらいは摂って貰えまいか」
ヤン・グァンはどうにかして母を説得しようと試みているが、さて母が応じるものかどうか……。俺とても母が食事を拒み続け、肉体が飢え死にするより前には経路を繋がなくてはならないのだ。食事さえしてくれるなら俺は喜んで引き篭もりを継続する。美味そうな命を喰らってくれるとなおいい。
「神子の手ずからならば摂ってもよい」
「それがの、ミラーソード様のお父君は睡眠中もしくは不在なんじゃ」
要求を告げた母に対し、困り切ったようにヤン・グァンが言う。……父は何か作業でもしているのかと思えば、なんだと? 母は何事か考える様子で両目を閉じてしまった。
「我らではお父君の魔術で封印を施された寝室には入れぬ。
朝から何度お呼びしても出て来ては下さらぬまま、昼前になってしもうた」
配膳が遅れた理由じゃよ、とヤン・グァンが申し訳なさそうに言う。
母は父の手からでなければ食物を受け取らないと言い、その父は寝ているか留守だと言う。俺の父は何でそう適当なんだ! 本当に俺の父なのかあいつは? 湧き上がった怒りに任せ、丼から湧く甘い汁を一息に飲み干す。
「お父君がいらっしゃるまではこのヤン・グァンもしくはシャンディの何れかが側に控えるゆえ、食物を受け取る気になってくれたならいつなりと声を掛けてくれるがいい。
ミラーソード様が我らリンミニアンに授けられた絶えざる聖釜より湧き出す白湯さえ口にすれば、直ちに飢えが癒されようから」
ヤン・グァンは長期戦を覚悟しているようだ。磔刑場の後方を見れば、配膳車に載せて運ばれて来た鍋や色々な食べ物の準備が見て取れる。よく見ると戦時を想定した野営用の調理術具の類まで持ち込んでいないか? アガシアの第一使徒に強襲されて破棄した計画だが、ミーセオに与して対アガソス戦争にリンミ守護軍として参戦する気でいた頃に幾つかは俺が作った覚えがあるぞ。
「暗黒騎士殿が食物を口にせぬ間はミーセオ伝統の計略を用いさせて貰う」
……ヤン・グァンよ、俺は腹心の勇敢さに驚いている。母相手にやるのか。何と言う勇気だ。俺なら怖過ぎてとてもではないが実行できまい。
「美食の炊事の煙で昼夜を問わず絶え間なく場内を満たす故、いつなりと呼んでくれるがいい。では、御免」
ヤン・グァンが磔刑場の中心を辞して下がったが、教団兵らは経典の読誦を続けている。人数が少ないのは交代制で続ける気だろう。
魔術師団が連れて来られていた理由だな。空気の流れを元素術で操作し、磔刑場の中心を美味そうな料理の匂いだけで満たすのだ。飢えに耐えかねた囚人が音を上げ、要求を呑むまでは……。
俺はヤン・グァンの主導したと思しき計略の成功を不正の権能を司るアディケオに祈った。その身の醜悪を覆い隠すアディケオよ、鏡の剣に潜む俺の恐れも隠してくれと。




