70. 1日目 - 孤立無援の暗黒騎士
オリエンテーションだかインストラクションはまだ終わる様子がない。
俺は奇妙な造りをした父の住まいで茶器を見つけ、茶器を傾ければ勢い良く真上に放出される漆黒の炭酸を硝子の杯で受けた。液体はしゅわしゅわと空気を放出し、舐めてみると非常に甘い。精神体の俺に甘く感じられると言う事は、腐敗か堕落を液状化させた存在だろう。理不尽な液体の吹き上げ方をする茶器は止め方が分からず、窓を開けて外へ排出させた。流石は父だ、茶器一つ取ってさえ訳が分からない。茶菓子を探せば虫の卵のような茶色の粒の詰まった筒が出て来て、俺が触れると白くポンポンと音を立てて弾けた。齧ってみると塩気がして柔らかいので食べる事にした。塩気はおそらく何らかの善性だ。
「ねえ。僕はあんなに強引な接吻は好きじゃない。やり直そう」
父と母はまあ、いい雰囲気なのではないか。
怯え切って動けず、意識を失う事もできない母の顔を父が両手で掴む。父も充分に強引だとは思うが、伸ばした舌で軽く触れるようにして母の唇を舐めるとそれだけで終わらせてしまった。母はさぞ欲求不満であろう。父は無造作に両手を離して母を茶室の床に放り出し、どうでも良さそうに言う。
「君にも生きる希望とやらが必要だろう。請願契約を交わそうじゃないか」
ああ、いわゆる悪魔の誘いだ。俺は黒い炭酸水を嚥下し、白い茶菓子を噛み砕く。椅子か寝台はないのかと探せばぽよぽよと身を揺すりながら大きめのスライムが一匹やって来たので、有り難く横にならせて貰った。鏡の外の世界は俺からすると上方に見えており、立ったままでは少々首が辛い。
「……何を……」
「ミラーソードを君の目的の為に使おうとするのは止めろ。
ミラーがやりたい事を助ける分には僕も黙っていてやるが、君は君自身の下らない願望の為に我が子と呼びながら支配したじゃないか。あれはよろしくない、僕の趣味じゃない」
言いながら父が振る。半透明の幻がケタケタと笑声を上げ、母に悲鳴を上げさせる。流石は母だ、強い。まだ悲鳴が言葉になっている。俺ならば既に三度は卒倒していた自信がある。まあ、母には卒倒できぬよう細工をしたのだがな。
「止めろ! 私は……」
「君がどうしたいにせよ、僕も君も言わばお化けに過ぎない。
命を次の代に譲り渡して世代交代してなお残った残留思念だ。
よく考えろ、君は自分自身が恐ろしくないのか? 君自身が亡霊の如きもの、命ある肉体を求めて縋り付き憑依しようとする悪霊そのものだと言うのに」
「あぁぁぁぁ!!止めろ!! 言うな!」
茶菓子の塩味と母の上げる悲鳴が何やら快いな。そうか、父の言う事を真に受けるなら俺は母の形と意志を持った悪霊に憑依されていたのか。母の幽閉を解き、幽霊恐怖症を引き受けたら完全に正気をなくすんじゃないかね? 今は恐怖症から切り離されているから炭酸水が美味いが、戻ったら耐えられる気がしないぞ。
「止めろ」
「せめて『止めて下さい』とか言えんのかね、君は。
肉体と言う檻に幽閉されていると言うのに態度ばかり大きい」
「……後生だから止めてくれ」
「まだ意志が折れてない。やり直し」
また父が手を振り、半透明の幻が倒れた母に屈み込んで接吻をした。そのまま母の肉体をすり抜ける。……ああ、きつい。幽霊恐怖症持ちの状態でこんな真似をされたなら、俺なら自決を決断すると思う。案に違わず、母もそうだった。腐敗を帯びた手刀が母自身の腹を貫こうと試みた。
「バーカ」
父によって詠唱破棄された何らかの理力術が母の両手を戒めて掲げさせ、そのまま茶室に宙吊りにする。
俺の肉体だと思うと微妙な心地にはなるよ。もう戻る事は考えずに肉体は母に贈呈し、何やら美味い炭酸水を飲んで鏡の中で暮らした方がいいんじゃないかね? 母は俺の肉体を手に入れられる。俺は幽霊恐怖症から解放される。両者共に何も困らないではないか。そうしようぜ、もう。後が怖過ぎて俺は考えたくなくなって来たよ。戻った時に母の自意識があったら、俺は間違いなく戦槌で汚い染みになるまで殴られるわ。
「死ぬ気があるならどうして邪神なんかと契約したのさ、ろくでなし。
大人しく消滅して知識と経験だけを子供に提供していたなら、君はこんな目には遭わなかったよ? どうして肉体に執着したんだ」
回答を拒むように首を横に振るだけの母に苛立った父が叫ぶ。
「そうかい、躾が足りないようだ!」
父の足元に複雑な召喚陣が黒い光によって描かれ、一瞬で完成した。多分、不浄の召喚陣だと思う。召喚陣からは悪しきものどもの大群が立ち昇るようにして姿を見せ、茶室の隅へと追い遣られる。悪霊の類が怨嗟の声を上げ、強い命を持つが弱っている生者―――母へと無遠慮な飢餓の眼差しを注ぐ。こんな光景、俺が恐怖症持ちだったら確実に死ぬと思う。
「ミラーは聖句の御札を持ってるもんね。
でもね、御札を僕が取り上げる事はできるんだよ」
優しい声音で父が言う。請願契約を母に呑ませる為に意志を叩き折ろうとしているのだ。解るのだが、息子としては黒い炭酸水の甘さに現実逃避気味の思考をしてしまう。
「僕自身は死霊術に適性がないけどさ、召喚術で喚ぶのは余裕なの。
君が恐れるものどもでリンミを満たし、廃墟にするなど容易い事だ」
母はさぞ辛かろう。悪霊の類を茶室から溢れるほど見せ付けられ、まだ足りぬもっと出せると脅されているのだから。母は呻き声さえ出せていない。茶菓子の塩気は慣れて来るとちょっとした甘みに感じられる。なるほど、父が鏡の中で好んで食べていたらしい味だ。相変わらず炭酸水を噴き上げる茶器からお代わりを貰って来る。
「託宣だよ。汝が真実のみを語れ」
父は最上級術の一つを行使したらしい。占術か心術を極めていると使える。抵抗に失敗した者は命じられた事に背けず、強制力も強い。そして超重篤な幽霊恐怖症の影響下にある母は抵抗力が皆無だ。
「言えよ。どうして肉体に執着した」
母は託宣で強制された指示に応えようとしたが、闖入者があり口にしようとした言葉がかき消された。
「ミラーソード様!?」
おや。
肌も露な衣装で刺青を施された身を晒し、俺が与えた杖を手にした魔術師が茶室の扉を開けた。
「やあ、シャンディ。ごめんね、今取り込み中だからまた後で」
父があっさりした口調で侘びらしい事を言い、緑の瞳で睨む。ミラーソードの三人の腹心などと言われてはいるが、ヤン・グァンとシャンディは俺からすれば平凡ではない程度の人材でしかない。
父が詠唱破棄かつ多段詠唱と多重詠唱で操る魔術にシャンディが抵抗できるはずもなく。
「わかりました」
「うん。ダラルロートも急用で十日くらい戻らないから」
「伝えておきます」
父の精神支配を受けたのだろう。シャンディが何の疑問も感じていなさそうな顔で吊るされたミラーソードと父と悪霊どもを見て言い、茶室から退室して行った。母の孤立無援ぶりを見せ付けられ、俺は父にだけは喧嘩を売るまいと決意を新たにした。




