66. 取引
鏡は聞く耳を持っていなかった。長ったらしい請願を伴う大魔術が編まれて行く。
俺に魔術を与えている最大の力の源泉は父であり、経路を早々に切られていて知識はあっても術を止められない。鏡の剣には《非破壊》の魔力回路を刻んである。鏡の剣の破壊は困難で、仮に破壊できても今度は俺の体を使って術を使われるだけだ。止める手段が思い付かない。
「炎よ、命よ、魂よ、美よ、愛よ、規律よ、清浄よ。腐敗と堕落を超克する権能よ。我が敵を滅ぼし放逐せよ。我が交わす約定は汝らに誓う、惜しみなき援助を与える者に然るべき代償を以って―――」
鏡の呪文詠唱の長さは危険過ぎる。腐敗と堕落に対抗できそうな権能に呼び掛けるのはいいが何節唱える気なのか。書き記される印が陣を形成し、術の一部として編成される様は冗談でも何でもない。皇都全域に影響しかねない大魔術をやらかそうとしている。
「呼び掛けに応えるならば炎を燃やす者に百八十日、命を授けし者に百八十日、魂により助けし者に百八十日、美によりて救いし者に百八十日、愛を遣わせし者に百八十日、規律によって律する者に百八十日、清めをもたらす者に三百六十日の魔力を捧げ、己が未来の血より七百二十日を以って贖うであろう」
請願契約文はえらく雑で一体誰が俺の魂を持って行くのか知れたものではないし、俺の活力が向こう数年に渡って前借発動の代償として枯渇させられる。鏡はどんな術を使っても代償を払うのが俺だと言う事を忘れているのではないか? 陣は複雑化を続ける一方。発動すればおそらく起きてはいられず、眠る事になる。その間に飢え死にしなければの話だが……。
「止めないと不味い」
「そうか」
反応の薄い母に何と言えば父を止めてくれる気になるのか、必死に言葉を探す。
白い肌は顔色を変える事がなく感情を読み辛い。母の唇が紡ぎ出す声には耳から入り込んで俺の堕落と腐敗を刺激する力がある。両肩の烙印から滲む熱は俺を酔わせようとする。思考を放棄したい衝動に意志力で耐える。
俺は親の喧嘩の仲裁のやり方など知らない。転移で逃げる気でいるのか、対堕落・腐敗特化の攻撃魔術を前にして耐える自信があるのか。少なくとも俺は直撃を受けたくないし、そもそも発動して欲しくない。
父と母の会話、生後からずっと側にいた鏡の言動。この際、適切な助言をしてくれるなら一人目のダラルロートでも二人目のダラルロートでもアステールでもいい。三人目のダラルロートは呼びたくない。
「発動されると鏡が約束した代償を払う俺が死にそうだ」
「……約束されている代償が多いのは解る」
母は元は聖騎士で、魔術は召喚と神聖以外疎いのだったか?
冷汗のようなものが滲むのを感じた時、公爵の部屋から呼び鈴の鳴る音がした。だが話を聞きに行っている間に鏡に殺されてはどうにもならない。腐敗に触れて俺が源泉から魔法騎士の力を引っ張って来れるか試す時間もなさそうだ。母に言った。
「アステールを出して欲しい」
「借りを作る気があるならアレを止めてやるぞ」
金髪の暗黒騎士がくすんだ白銀の魔法騎士に瞬時にして姿を変え、そんな事を言い放つ。いつ術を完成させられるか解らない今、取引だと!? 自我の抑制が甘いのだろうか。公爵の部屋で会うアステールの印象に近い。
「返済がいつになるかは保障しない。とにかくやれ!」
「よかろう。なに、難しくはない」
アステールが何らかの魔法操作を扱おうとしているのは解った。銀髪の男が鏡の刀身の中から不快げに俺達を見る。
「ああん? あのバカを隠しても諸共に焼くからね?
僕、怒ってるの。烙印なんざ消し飛ばしてくれる」
口を開いても術をまるで揺るがせない父は確かに強大な魔術師なのだとは思うが、今は有り難くなさ過ぎる。アステールがニヤリと笑う。編まれていたいかにも強大げな魔術が端から消え、するすると紡ぐように魔素に戻される感覚がある。
「げっ、何するのさ!」
「魔力の循環を断って解体しておる」
鏡の中の父が不思議そうに首を傾げた。
魔力循環と魔力解体を習得しているならできるらしい。アステールはそれなりに集中してはいるものの、会話に応じるだけの余裕を見せている。
「この通りよ」
「ぐぬぬ……。このジジイには学ぶべき所があるみたいね」
術の半分ほどを解体された時点で鏡も諦めたようで俺との経路が再び繋がり、母と言い争っていた狂乱も収まった。母と父との不仲が原因でアディケオを信奉する帝国の皇都を消し飛ばされかねないのは危険過ぎる。俺としては早急に自宅へ帰りたい。……できる事なら争って欲しくない気持ちもある。短かかったが、三人で会話できていた時間があった事を忘れられそうにない。
「なあ、鏡よ。この烙印はそんなに不味いものか?」
「ミラー、言ってる事の意味は解ってるの?
肉体に刻まれた烙印は魔力回路と同じで精神の源泉を削るよ」
「俺の神からの授かり物だぞ」
「……ふうん。刻んだままにしていたいの。そう」
鏡はまだ収まらない風だったが、無理に烙印を消そうとするのは止めてくれた。
母を呼び出せば諍いが再燃すると解っているし、ダラルロートも呼びたくない。分体を俺に戻すとダラルロートが生えて来る気がしてならないのはいつぞやの悪夢のせいだと思う。逃避の結果として、分体はアステールに化けさせたままになった。
「この年寄りは助けになれるのではないかな」
「何が言いたい、アステール」
「儂の望みを叶えて貰うまでは手を貸してやれる。
今のようにある程度の力を返して貰えればの話であるがな」
俺は今更ながらに、かつてアステールはダラルロートの師だったと言う話を痛感していた。大人しく独房で幽閉に甘んじているだけのはずがなかった。俺との対峙に応じながら、こうして自我を強める機会を待っていたに違いない。
「いいんじゃない、ミラー。
ダラルロートとあいつのどっちも出したくないでしょ、今」
「夫婦喧嘩の仲裁もしてやろうか」
「考えとく」
「貴様がアガシア目当てに御所に行けば俺の分体であろうと殺されるぞ」
「卿の積極的な協力なしには儂の望みは叶わぬであろう」
「……弁えているならば良い」
公爵の部屋で会うアステールの重々しい声そのままに、俺の分体が化けたアステールはそう言った。長い忍耐を覚悟した老人の意志は固く、アステール独りだけが善性を持つ中にあってさえ強固な自我を保つだけの強さがあった。




