65. 神子と司直
「そうか」
ああ、母もこんな表情をするのだな。抑えた声で笑い、微かに肩を震わせる聖騎士を装い冒涜する何者かを見るのは幸福を感じた時間だった。鏡が術を―――それも呪文を唱えてまで―――使おうとするまでは。
「まあ、そうよね。
僕の厳命をこそ至上とし、魔力よ魔素に還元し一切の歪みを正せ!!」
鏡の、つまりは俺の父の意志の呪文詠唱など生後間もなく俺に魔術を教えてくれた時に「鏡は大魔術師だからこんなもんいらん」と言われながら聞いた覚えしかない。
短い詠唱内容からすれば魔法解除に類する術だが、父も俺も呪文など普段は唱えないし禄に集中もしない。たった一つの術の為だけに口を動かして意識を持って行かれていては、多重詠唱及び多段詠唱の邪魔になるからだ。
行使したい術式を予め己の内に準備しておき、魔力放出量が許す範囲内で魔術を発現させるのが俺達のやり方だ。準備可能な術式の数には精神力と記憶力の限界があり、あまりに長時間戦っていると弾切れを起こす。
多重詠唱は複数の術を同時に行使し、多段詠唱は術を複数回時間差を置きながら連打する。下級術でいいのなら周囲の魔素を吸収しつつ無数に垂れ流せる。シャンディには何度説明しても全く理解されなかったし、公爵の部屋で二重詠唱の使い手アステールに訊ねても多重詠唱について完全な理解には至らない様子だった。父は俺にこのやり方しか教えなかったが、俺達のやり方は相当に異質らしい。詠唱を伴う魔法解除だ、と一つの術のみを認識させられた機会は記憶にない。
鏡がわざわざ唱えると言う事は、鏡が瞬間的に可能な魔力放出量の限界を振り絞った魔力を操って、それこそ永続的かつ強度を引き上げられた最上級術でも打ち消そうとしたのだ。術の対象は俺だった。
「鏡よ、私の邪魔をしたいのか」
「べーつにー。鏡はね、うちの子が何をしていてもいい。
でも、鎖で雁字搦めのまま笑顔で幸せそうにしてるのはムカつくの」
母は怒りを見せてはいない。静かな目で鏡の中に結ばれた像を見ている。
父は明らかに怒っている。軽薄な口調の時の鏡は、臆病なりになけなしの勇気を振り絞っている場合がある。但し狂っているので、特にどうもしない場合でも口調がころころと変わるのだが。
「大魔術師の僕でも烙印は拭ってあげられないね」
「鎖は砕けたがな。我が子と思えばこそ戒めたものを」
母の黒い瞳が俺を見る。地獄を訪ねた俺を白い鎖で呪縛した暗黒騎士の酷薄げな視線に、俺には母なりの愛情を見出せる。鏡の中の父はおそらく、今まで生きて来た中で最も怒り狂っている。両肩に刻まれた烙印は凄まじい圧力の魔法解除に接しても健在で、神力の偉大さと母の手で捧げられた魂の総量の多さを教えてくれる。
「流石にね、うちの子を堂々と犯したお母さんを詰問しないといけないと思うの。
今の僕に弱点はないぞ。どれほど君が邪神に愛されようとも僕よりは格が落ちる」
「……洗礼の苦痛は大きいのだ。縛らねば苦悩と悔恨ばかりが残っただろう」
「抜かせ、こんなごっつい墨をうちの子に入れやがって!」
「折角の確立された自我だ。私としては生かしてやりたかった」
……それにしても、父と母の二人は何を言い合っているのだろう。
父が母に施された呪縛を解いてくれたらしいのだが、俺にはどうも実感がない。鏡の事は狂っていると理解した上で父だと思うし、長い事会いたかった母にも愛情と呼ぶべきらしい感情を持っている。
「こちとら邪神の神子様だ!
身代わりとして産み捨てておいて今更干渉しようなんぞ笑止千万!!
僕は全力でお嫁さんと引き篭もってやるからな!!」
「神子よ、そなたは後ろ向きなのか前向きなのかどちらなのだ?
私は司直として遣わされた。
そなたを放置していては何一つ神子らしい働きをせぬ」
完全に激昂している鏡に対して母は呆れ気味に見えた。神子と司直とは何だろう? 初めて聞く名だと思う。
「けっ!! 何が司直だ、かーちゃんめ!
僕は『じゃ、よろしく』としか言われてないんだよ!
ああ、その前に『ごちそうさま』とも言ってたかあ!? それだけだい!」
「我が神が私を受け入れて力を与えた理由は間違いなくそなたの怠惰だ」
「その減らず口と涼しげなお顔を腐敗させてやろうか」
「私を腐敗させられるのはもはや神その人だけではないかな」
鏡の剣が切っ先を母に向けるに至り、ようやく俺の頭が動き出した。間に割り込んで二人を見る。
「父と母で言い争ってもどうもなるまい。俺は別に問題ない」
「ごつい鎖を掛けられて支配されてたミラーの発言権は認めませーん」
父が激昂した様子で言い、母が目を細めて嗤ったのは知覚していた。するりと俺に良く似た腕が伸びて来て俺を後ろから抱き寄せ、瞬く間に布を腐食させ両肩を剥いた。黒々とした烙印が露になる。
「神子はそう言うがな。我が子は烙印の疼きを感じないか」
耳元に感じた母の吐息は地獄で感じたままに熱かった。血族に触れられる心地よさで思考に靄が掛かる。両肩が熱を帯び、俺に何事かを囁き掛ける。母に触れられた箇所から思考を焼き切られる心地に俺は酔った。
「神子様を舐めてないかな、クソ司直」
すぐさま鏡から氷水めいた術が俺に突き刺さり、正気に引き戻された。それでも母の腕の中に戻りたいと言う渇望が両肩から滲み出るようにして湧いて来る。地獄の底で邪神その人に会い、堕落と腐敗の恩寵を授けられた母の甘い声がする。
「どうかな。我が子は私の言葉を聞いてはくれまいか」
「うちの子に下らない義務を課そうとするの、本気で許さないから。
たかが烙印如きを絶対視するアンポンタンなぞ僕の足元にも及ばぬと知るがいいわ」
俺が止めかねている間にも父と母の視線が冷える。鏡の中の父の像が呪文を唱え、印まで切り始めた光景は俺を畏怖させた。呪文詠唱の上に、印だと? 一体どんな大魔術をやる気なのか。止め損ねたなら皇都に破滅的な毒を帯びた流星くらいは降って来かねない。
「止めないのならどちらの言う事も聞かんからな、俺」
可能な限り冷静な声を絞り出して言いはしたが、聞き入れて貰えるかは正直な所確信を持てていなかった。




