64. 諸悪の根源
朝食の調理は屋敷の者にさせたのだが、相席者の食欲は俺よりも旺盛だったので料理の追加が必要だった。邪神が小さな召喚陣を介して手を伸ばして来れた神域に近い地獄で、飢えた目を見たのは記憶に残っている。息子としては孝行したい所である。
「古めの話から順番に行こうか、お母さん」
「一年以上直接話せずに過ごしたのだ。訊きたい事はあろうな」
鏡の剣は母の間近で宙に静止し、鏡の中に銀の髪をした青年のような姿を映し出して専ら母と会話している。鏡の中の父は“お母さん”と呼び掛けているが、そう呼ばれている金髪で俺にそっくりな男は眉一つ動かさない。悠然たるものだ。
「ミラーにさ、黒竜相手にハンマーでカチ込み掛けさせたのはお母さんの差し金だったの?」
「……私の予測よりも古い話を引っ張って来たな。促した事は否定しない」
「やっぱり。僕の考え方の行動じゃなかったもの」
「ミラーちゃんてば、生後はどうしてあんなに脳筋だったの?
変成術の発動に呪文を唱えようとした時は卒倒しそうだったからね、僕。
お母さんも召喚術を使ってたよね? 神聖は魔術適正があったのお母さんの方だし」
「その点は私のせいばかりではないと思うぞ、鏡よ。
我々は性格的には交わる所がない人格だった。混ざり切らなかったのだろう」
「無理矢理されたのに心が順応するまでは時間が掛かったって事ね」
両親の話を聞いていると居た堪れない気持ちになる。俺は話題が変わるのをひたすらに待った。
「リンミの話をしようか。
属性転向毒なんて開発しちゃったのはお母さんの差し金よね?」
「何でもかんでも私のせいにするものではないぞ、鏡よ。
変成術で毒物を作れると学習した我が子が自発的にやった事だ。
そも、鏡は変成術で財貨を直接創れるはずが妙に小さくなっていたではないか」
「目立つの嫌いなのよね、僕。宝玉やら金銀をばんばん作ったら目立つじゃない」
「だからそなたは怯懦の虫だと言うのだ。
容易く叩き潰される弱者ではないと言うのに逃げ隠れを好む」
「お母さんも一回、超重篤恐怖症を経験したらいいんだい。本当に辛いぞ」
「私に弱点などないからな。そなたらの心理はまだるこしく思う」
父の身につまされる話に俺はそっと茶を啜った。母が褒めてくれた事は密かに喜んでおきたい。
「街を支配するぞー、って突然張り切ったのは完全にお母さんよね?」
「……私はただ、我が子の能力であれば可能な範囲をある程度明示したまで」
「ほら、ミラー。御覧なさい! お母さんが目を逸らしたら自覚があるんだよ!」
「親子であれば癖の一つや二つは似るものであろう」
劣勢に回る母は珍しい。母に似ていると言われて俺は嬉しかった。
「ダラルロートに関しては私から貴様に苦言があるぞ、鏡よ」
「あ、はい。ダラルロートに渡した鏡の剣に僕の声が聞こえるように魔力付与した事はすっごく反省してます。
ダラルロートの『お役に立てると思います』などと言う甘言に乗ってしまって僕ってばホイホイと……」
「つまらぬ意識操作など受けおってからに。我が子も怯むばかりで気付かない」
「下級術なら僕には効かないから示唆の訳ないよね、こいつ鋭いなー見所あるんじゃない? くらいの気持ちでした、ハイ。
今にして思えばアディケオに加勢された上級術の命令か、最上級術の託宣だったよね。ただの精神干渉じゃなかったのよ。僕ら、欺瞞耐性が高くなかったのを綺麗に突かれた」
「さもありなん。己は策謀の対象にならぬなどと油断するものではない」
「お父さんは海よりも深く反省している次第です、お母さん」
鏡の刀身の中で父の映像が厚い座布団に座り、母に向かって土下座して見せた。母が鷹揚に頷けばすぐに面を上げてにへらと崩れた笑みを見せたので、父はさほど反省はしていないように思う。
「僕は神の類が怖くて仕方なかったのに、ミラーが平気な顔してるのはどうして?」
「未知と既知の差であろうな。
そなたは未遭遇の神々を測りかね、お化けとして怯んでいたのだろう?
私にとっての神は殺害可能であり、閨で奉仕する対象だった。その違いだ」
「わーお、あんまり聞きたくなかったお答えが来たわ」
「神に臣従するとはそういう事だぞ、鏡よ」
俺もあまり聞きたくなかった。母が神の寝所に招かれてそういう事をする姿は息子として愉快ではない。強く美しい母を誰ぞ他の者になどやりたくはない。母が食べ終えた茶菓子を新たに供しつつ、俺はそっと目を逸らした。
「アディケオのカエルちゃんに従わせたのはどうしてよ?」
「決断したのは私ではない。鏡はあまり我が子を侮るものではない。
ノモスケファーラに対抗可能な神は少なく、アディケオは悪い選択肢ではない。
ノモスケファーラの権能が規律、支配、剛力、大地、賢察なのは知っていよう」
「ごめん、お父さんは知らなかった」
「俺も初耳だと思う」
「……後で神学を講義する必要があるようだ」
正直な所、俺は土着の神々に興味がさほどなかったからな。アディケオに従う以前は、ひたすら父にして母なる腐敗の邪神にばかり祈っていた。鏡の中の父は父で、神を恐れていた過去から思考放棄気味だったようだ。俺がお化け相手に酷く怯えるのは狂神の賜物だと言う以外にも、臆病な父方の血のせいもあるはずだ。卓の話題はアガシアの花との戦いに触れる。
「スコトスなど私が捻り切ってやれたのだがな」
「お母さん、ミラーに何も知らせてなかったでしょ。
鏡はあそこでアガシアの契印を使って神域に入るのは厳しかったと思うの」
「アステール相手にダラルロートが死んでいたのでそなたの見解を否定はせぬ」
母の期待に応えられなかった部分だろうか? 出来の悪い息子だと言われているようで少しばかり身を小さくした。父と母はアディケオにアガシアの契印を捧げる気がなかったかのような言い回しを聞き、俺は沈黙を守る事に決めた。
アガシアの契印を捧げた後、アディケオは俺に注ぐ水の恩寵を加増してくれたのだ。俺が水神としてのアディケオに捧げる信仰心に偽りはない。母の手で両肩に刻み込まれた堕落と腐敗の烙印がじくりと滲んだ心地がして、俺は口の中で小さく腐敗の邪神に祈った。俺の主神は我等が血統の父にして母だ、と。
「可愛いうちの子がどうやら今朝方童貞を捨てた件についてはお母さん的にどうなの」
「あれは肉体と精神の両面から穢して烙印を刻んだのだ。
……そうさな、我らの血統の成人の儀式だとでも考えるといい」
「そっかあ」
母の目が俺の肩に向く。体感として烙印は神力によって刻まれた魔力回路のようなものだ。俺の魂を捧げ物にして授けられた力の証。ダラルロートが命令一つでアステールと母に姿を変えたのは愉快でならなかった。こうして母と話せている事に関しては、アステールとダラルロート師弟に感謝してやってもいい。
「要するにお母さんが諸悪の根源だった訳だね?」
「鏡よ、そなたは私に何度我が子を侮るものではないと言わせる気だ」
「僕はダラルロートだけは絶対反対の立場だったのよ、お母さん」
「そうか」
しかめっ面した鏡の声に母が抑えた声で笑い、微かに肩を震わせた。
母が諸悪の根源だったと言うのなら別に構うまいに。俺は茶葉を入れ替え、母と俺に茶を淹れた。俺にとっては生後初めて二親と共に過ごした楽しい時間だった。




