62. 地獄の洗礼
「ここまで堕ちて来たか」
「ああ。一度会ってみたくてな」
入口を初めて見つけた俺は酷く興奮した。己の肉体を化け物に差し出してでも会いたかった母の部屋は天幕の形をしていた。顔のない見知らぬ紋章を着けた教団兵達に囲まれ、天幕の中で待っていた者は金髪の聖騎士の姿形をしている。俺の髪は金銀混淆だが、なるほど髪以外は鏡写しだ。不老の異能を与えられていた為にバシレイアンとしては青年に見えるが、実際には中年の域だったと言う。俺は進み出て一礼する。
「初めまして、その名を喪った母よ。俺の名はミラーソードと言う」
「……我が子に母と呼ばれるのは妙な気分だ」
母自身はやはり男としての意識が強いようだ。俺よりも深い所へ堕ちている母に目礼を貰うと胸が騒いだ。もっと近付きたいと。
「俺にとっては母だ」
「そうであろうが、私には男として生きた記憶があるのでな……。
そなたは自らに名付けをしたのだな。ミラーソードと」
「そうだ。鏡は俺をミラーと呼ぶ」
「では、私もミラーと呼ぼう」
最初はミラーもミラーソードも偽名だった。俺の血統は親が子に名を付けないから。
アガシアの契印を捧げた後に喰らおうとしたアステールがどうにも手強く、俺は自らの名の空白をミラーソードで埋めた。名付けを経て自我を強め、どうにかアステールを公爵の部屋に幽閉したと言うのが本当の所だ。
「私は苗床となった者ではあれど、そなたそのものではない。
この天幕からそなたに触れてやるのは限界があった」
「それでも時折、母を感じたよ」
「そなたの父は怯懦の虫ゆえ、黙ってはおれなかった」
母の言う通りで、鏡の剣に宿る俺の父は狂っていて非道を平然とやるが気質は臆病だ。理由がないなら地下深くに潜り、繁殖しながら暮らす事を好みそうだ。己の怯懦を恥じる事もない。
「どうして父は母を選んだのだ? 性格が見事に真反対だ」
「アディケオの分霊の前でそなたの口を借りなかったか」
母は静かな口調のまま、その両手に白い鎖を生み出した。呪縛の術だと解る。
解ったが、俺が縛られるとは考えていなかった。抵抗さえ許されずに鎖で戒められ、その場に転がった俺を母が軽々と横抱きにする。そのまま天幕の奥へ連れて行かれた。
「何を!?」
「私があれを縛ったのだよ。このようにしてな。
無理矢理だった、とあれが言っていただろう。事実だ」
祭壇が目に入る。腐敗の邪神の祭壇だ。俺達の血統の父にして母なる邪神の力を感じる。堕ちた母が暗黒騎士として奉じる強大な邪神の力を。遥か遠くからの注視に力が抜け、母に身を任せた。
「従属を嫌って暴走したあれの内面でもう一度抗った。
……結果は名を喪った私であり、混ぜ合わされて生まれたそなただ」
俺に触れた母の手は熱かった。地獄の熱量を帯びた魔性の掌が心地よく俺の精神を掴み、魂を捕らえて離さない。ああ、と納得した。俺は母に洗礼して貰いたくてこうして堕落の深みまで降りて来たのだと。
「ミラーソード。そなたはここまでは堕ちて来れた。洗礼の時間だ」
だから、生まれてからずっと会いたかったのだと。俺は邪神の呼び声を聞いていた。俺は母が地獄にいると知っていた。聞いていたのは母の形をした腐敗の邪神の呼び声だった。
母の着ていた聖騎士の鎧が腐敗し、蠢くような骨と地獄の熱で造られた暗黒騎士の鎧に形を変える。眼には飢えた光がある。肌は死んだように白く、唇から漏れる吐息は熱い。俺は母を随分と待たせていたらしい。
「そなたの魂を我が神に捧げよう。……それとも、私の手では嫌か?」
「嫌じゃないよ、母さん」
鏡に向けていたような言葉を母が言った。母の笑みが嬉しかった。
恐い顔だと鏡に言われた覚えのある、俺と同じ笑い方だった。
「私と共に唱和を」
「うん」
聖句はよく知っている。短い聖句だ。産み落とされた時から知っている。
「「捧げよ」」
祭壇の前。描かれていた不浄の召喚陣に底知れぬ穴が開く。黒い手が母と俺とに触れる。
「「然らば与えられん」」
抱えられた俺と母が諸共に腐り落ち、祝福と共に再び産み落とされた事は覚えている。




