52. アディケオの使徒達
俺はアディケオの第三使徒だが、第三位である以上は他の位階の使徒が当然いる。
アディケオの第一使徒はミーセオの皇帝一族を常に外敵と内患から守っており、御所には来ないと聞いている。第三使徒が俺で、下には第四使徒から第八使徒までいる。俺ほどの力量こそないもののアディケオが選んで祝福した者達だ。アディケオに敬意を表し、使徒と不必要に争うつもりはない。
隠れる君の御所に満ちる霧の中には無数の隠された領域があり、管理者に滞在を許された者は一つの幕から繋がる空間を与えられる。俺も管理者に好きにして良いと言われて領域を賜ったが、アガソスでのテロに専念する都合上ダラルロートが授かって私邸を構える領域で宿を借りている。時には管理者を招いた宴をすると言うダラルロートの私邸は、リンミにある太守の館にも増して豪勢な代物だった。余裕ができたら俺も自分の領域に何か趣向を凝らした別荘を建てたいとは思う。
ダラルロートの私邸での暮らしは一点を除いて悪くはない。
「お目覚めですね」
「ダラルロート、いつからいたの!?」
「さて? いつからでしたかねえ」
「……おはよう、ダラルロート」
「おはようございます、ミラー様」
毎朝ではないのだが、既に七度か八度あった。術の回復に必要なだけ眠って目が覚めると、ダラルロートが客間の寝台の傍にいて愉しげに俺を眺めていると言う経験は。悲鳴を上げる鏡もダラルロートが言葉を発するまでは気付いてはいなかったのだ。就寝前、父たる腐敗の邪神に胡乱なる者どもの滅亡を願う祈りを捧げた時にはいなかったはずだ。
「何回目だと思っている。俺としては控えて欲しい」
「そうだ、そうだ! 鏡はプライベートって大事だと思うの!」
「こうしているとアディケオへの帰依が深まるのですよ。
隠れる君の御所において、欺きと騙しに気付かぬ者に力はないのです」
「御所内の法は解ってはいるがな……」
御所の中では騙し合いが奨励されており、ダラルロートの言う事は間違ってはいないのだ。力でなら俺はダラルロートを排除できるが、住人同士の喰い合いと殺し合いは管理者によって禁じられている。手は出せない。
いかにダラルロートが欺瞞の達人であり、俺よりも手管に通じているとは言えどうしてこうも易々と侵入されるのか不思議でならない。ダラルロートに与えられた領域内に建つ私邸で寝起きしているのが根本的にいかん、と理性では解っている。
アガソス国内での活動には相当量の魔力を費やしておりダラルロートも疲労しているはずなのだが、疲労を引き摺る素振りなど一度も見た事がない。
「念の為に聞くが、どうしたら止めてくれる?」
「私を受け入れて頂ければ、いつなりと」
「嘘だ! 嘘の響きしかない! 骨まで噛り付いて満足するまで離さない気だろ!」
鏡の叫びには答える気がないらしく笑うばかりだ。
「……俺が寝ている間に何かしていないか?」
「おや、ミラー様とて私に触れられればお目覚めになりますでしょう」
「ダラルロートが相手では己の五感が頼りなくていかん」
「我が主にお褒め頂いて嬉しく思います」
「貶し文句として受け取れ、ダラルロートの馬鹿あ!」
そんな事を繰り返していたから感覚が鈍っていたのではないかと思うのだ。
その晩も俺はダラルロートが客室の中にはいないと思えるまでは占術で探査を繰り返し、確信には至らなかったものの鏡に呆れられた時点で妥協して床に就いた。寝台には華美な鞘に収めた鏡の剣を持ち込み、脇に置いていた。
最初は髪を梳くように撫でられ、次いで頬を長い指で触れられた俺は非常に剣呑な気分で薄目を開けた。果たして視界に入ったのは整えた長い黒髪の男で、俺は怒りと諦めの混じった声を出した。
「なあ」
「今宵はどうにも御身に触れたくなりましてねえ」
「俺を暴走させたいのか貴様は」
「それはそれで良いではないですか。想いを遂げずに生き続けて何になりましょう」
寂しげに目を臥せる様子に躊躇ったのもよくなかった。引けば引いただけ押し入られ、かわそうとすれば滑り込まれとあっと言う間に密着されていた。殺し合いと喰い合いを禁じる御所内の規律に慣れた男に、暴力を禁じられた俺が寝台の上でまともに抵抗できはしなかった。
「隠れる君の御所において騙し合いと睦み合いは奨励されております」
毒の滴るような笑みを浮かべて耳元で囁かれれば甘く感じた。甘やかな毒だと。男からは俺好みの毒の味がした。命を味わいたいと言う渇望が鎌首をもたげ、命喰らいの本性が舌を出す。
「……喰ってしまえば吐き出せるか分からん」
「ただ身を任せて下さればよろしいように致しますよ。
いずれ寝所に招かれるべき身を整えるのもアディケオの宦官の務めであれば」
「ちと務めに熱心過ぎやせんか」
「ふふ……我が主が我らが神へ身を捧げられる決意をなさった事が嬉しいだけです」
全く同じ行動で一回死んでいるにも関わらずの無反省もしくは蛮勇に呆れなくはない。殺されても死ななかったせいで大胆になっているのだろうか。そんな無用に命を浪費する挑戦の気概は要らん。少なくとも俺に向けるのを止めろと……いや、そうか? 俺は止めさせたいのか、されたいのか。どちらだろう。
「……俺は現住種族とは身体構造が違う」
「急所がないならば作ればよろしいのです。その身の醜悪を暴くのもまた宦官の務め。
この堅く青い御体を捧げる前に清めるも汚すも使徒の務めと心得ております」
その身に纏う認識欺瞞が強く、密着してさえ筋肉質なのかそうでないのか、体温が温かいのか冷たいのかすら曖昧にしか知覚できない。今まで中年の男だと認識していたが実は女だった、と言われてもこの化け物ならば有り得ると思えてしまう。押し付けられた胸のふわりとした柔らかさに触れてみたくなる。
「悔いても知らんからな」
「そのお言葉は私に頂きたかったですねえ!」
言った途端、嫉妬を隠そうとしない男の声が俺を組み敷いていた長い黒髪の男に対しての理力術と化す。ぐいと摘まれたそいつは寝台から放り出された。やはりいたのかと息を吐く。頼りにはなるのだがな、化け物め。いつか喰われないまでも噛まれる気はしている。
「いけませんねえ、ダラルロート。殺し合いは御法度ですよ?」
「嫌ですねえ、非致死傷性の術であれば法度には触れませんよスコトス」
「え!? なになに、どうしたのミラー」
ようやく異常に気付いた鏡が起きて来る。一見してダラルロートが二人いるようにしか見えないが、ダラルロートではないと認識した上で邪視を向ければ臓器の中身が俺のダラルロートとは全く違う。
「鏡よ、これは夜這いと言う奴だと思う」
「わかった、ダラルロート殺す。絶対殺す」
「お父君、手を出すならスコトスを処理して頂きたいですねえ」
「鏡殿、偽者はそちらのダラルロートですよ。お間違いなきように」
剣呑な声を出す鏡にダラルロートとスコトスが騙し合いをしている。鏡に区別は付くのかね。見た目も声もそっくりで、服装に至っては肌蹴加減まで同じに見える。俺は陰気な気分で着心地のいい夜着の前を直した。
「鏡的にはお父君って呼ばれるの凄いむかつくの」
「父の感情に任せてダラルロートの方を殺されては困る。手を出さんでやってくれ」
不機嫌極まりない鏡―――俺の片親の人格を宥める。ダラルロートもたまには鏡を宥める努力をしてくれとは思う。俺の言葉を受けて愉しげに笑うのも控えてくれんかな。鏡が殺気を溜めているのを肌で感じるのは俺なのだぞ。
「食いでのありそうな青い果実ではないですか。何故まだもいでいないのです?」
「我が主に望まれるまではと大切に熟させている最中なだけですよ」
何やらろくでもない会話しか聞こえて来ない。
俺を欺けるほどの自己欺瞞となると、ダラルロート以外には候補は三人しかいない。アディケオその人、未だ会っていないアディケオの第一使徒、そして第二使徒スコトス。
「熟すと言えば……腐れ剣のアステール相手に負けたと聞きましたけれどねえ」
「アステール師の宝剣が腐っているであろう点に関してだけは同意しますが、スコトスでは早々に双剣で串刺しでしょうねえ」
俺には悪夢にしか思えんがな。ダラルロートが二人もいるこの夢からは早く醒めたいとしか思えない。もし二人とも俺に目を向けたら間違いなく身が竦む。
「ふん。ダラルロートが死んだと聞いた時のぬか喜びを返して欲しいですねえ」
「ほう、ぬか喜びに浸る顔を是非とも見ておきたかったですねえ」
鞘に収めた鏡の剣を手に、どうにかしてスコトスの欺瞞を破ろうと念を凝らすが捗々しくない。おそらくはアディケオに注がれた不正の恩寵が俺よりも多いのだ。ダラルロートよりも多い不正の恩寵に物を言わせて私邸のある領域に侵入して来たに違いない。
「スコトスこそ、いつなりと永劫の霧に隠れて第二位を空けて頂いて構いませんよ。
空位を埋めるに相応しき我が主、ミラーソード様がいらっしゃいますのでね」
二人のダラルロートが揃って俺を見る。その黒い瞳とは視線を合わせたくない。せめてどちらか一人にして欲しい。とは言え、初対面か。挨拶と行こう。
「治水の君に仕える第三使徒の暗黒騎士ミラーソードだ」
「隠れる君の最愛、第二使徒スコトス。あなたに見えている姿がスコトスの真実の姿ですよ」
水神としてのアディケオに対して敬意を払う俺と、不正神としてのアディケオを奉じるスコトスでは名乗りの文句が違った。
「お解りとは存じますが最愛とはスコトス当人の自称に過ぎません」
「寝所に上がった回数が歴代使徒を並べても最多ですので何も間違った事は申しておりませんよ、ダラルロート」
ダラルロートの姿を止める気はないようで勘弁して欲しい。次に会う時には姿を変えて来るだろうか?
「ねえ、ミラー。お父さんはうちの子の貞操が心配です」
「……アガシアの契印を捧げる為に全力を尽くす」
アガソスを一日でも早く滅ぼす努力を俺は微塵も惜しむ気はない。




