F54. 微睡む海唄亭
微睡む海唄亭は料亭と旅篭を兼ねている。
食堂で気分よく琴や笛の演奏を聴きながら頂いた分だと、牡蠣のグラタンや黒鯛の雑炊が特に美味しかったね。ダフネは香茸と黒鯛の湯が気に入ったそうだ。
デザートの糖瓜はダフネ一人で半玉分を平らげていた。くらくらするほど甘くて美味しいよね、シォンドウの糖瓜。デザートを食べる頃には身体が酒気に慣れていて、鮮やかな橙色の果汁を口に含むと少しばかり元気が出たよ。
シォンドウ市が刷っている公式の手引書によれば、微睡む海唄亭の格付けは桃みっつ、剣ふたつ、竹ひとつの評価だ。
お料理がトップ層に属するくらい上等で、用心棒がいる良質なお宿で、お値段は高めだから貴人や富豪向けだぞ、と言う意味になる。逆に『ウチは庶民向けだ。貴人は遠慮するか、庶民の装いをしろ』と主張するお店は竹みっつになる。
客室で手引書に目を通したダフネは悪い顔してたよね。
「つまり、剣の印がない店は襲ってよいのか?」
「荒らすなと申し付けたであろうに……。
そうではなく『他の客と争って殺されても自己責任であるぞ』と言う意味だ。剣三本の施設には腕利きの黒舌教徒なり紫腕教徒が用心棒として常駐しておるし、我ら赤斑修道院騎士団の詰め所も近い。余程の手練れでなければ牢獄へ移送するとも」
「なるほど? ミーセオニーズのやる事は面白いの。……いや、チーバンレンのやる事はと言うべきか?」
「さてな」
用心棒もピンキリなんだけどね。必ずしも、武装して睨みを利かせている体格のいい男ばかりではない。年老いた店主の功夫が尋常でないから剣みっつ、と言う場合もある。
ミーセオニーズの言う事だから嘘や見栄なんじゃないの? と疑う自由もあろうけれど、シォンドウは赤斑教の支配地域だと言う点は思い出して欲しいかな。別名義を使っているけれど、手引書の監修には師匠も参加している。
宿泊客は割り当てられた浴場を使えるから、ちょっと困ったよね。結局は順番に入ったけれど。
だってダフネと僕を女湯で二人きりにしたら、心術でダフネの財布にされるのは目に見えているもの。ダフネは男を犯さず建物は燃やさないと誓いはしても、心の弱い者を奴隷にしないとは一言も言っていないのだ。
心術に長けた宿泊客とは結構な厄介者なのさ。シォンドウでも剣みっつの旅篭でないと、従業員への定期的な魔術的検診は実施されていない。今回は臨時の検診費用も含めて青指教に請求が行くだろう。
ミーセオ帝国は長く愛の権能に対抗していたから、社会的に魅了や精神支配に対しての備えがあるのさ。白腹教の保険公司も、魅了保険やら精神汚染保険を売ってるね。操られて出してしまった損害に対して保険金を支払う商品だ。
楽士や客として修道院長を護衛する修道士達は残業かしら、と言う頃合いにようやくだった。預かっていた角灯を内側から押し広げるようにして火を潜り抜け、チャーリー公子が客室に姿を現した。
ああ、修道士と言っても扮装ではないよ? シォンドウは赤斑教の重要な根城の一つだ。微睡む海唄亭に限った話ではなく、経済活動を兼ねている要員が多数いる。どちらが彼らの本業かと言われれば、3:7で商業に比重が傾くと聞いた。
公子が来た時には夜も遅くなっていてさ。
師匠は僕とダフネを客室で寝かし付けようとしていた。上等で広い客室の壁を飾る精緻な絡繰り時計を信じるなら、僕らは日付が緑曜日から赤曜日に変わる頃合いまであれこれ話し込んでいたらしい。
「予定よりも遅かったな。曜日が変わっておるではないか」
「ベイ・チャーリー・ソン、青鐘嶽より只今参上致しました。遅参につきましては面目次第もなく。現地にジャオ・ハンがいらしておりまして……。アディケオの第四使徒をして、小娘どもの手を捻るようにとは参りませんでしてな」
見るからにボロけてたからね、焔渡りの秘儀で転移して来たチャーリー公子。
大型の刃物でざっくりと切り裂かれたらしい鎧下が半ば脱げ落ち、上半身は半裸だったもの。見当たらない胸甲共々、お気に入りの仕事着だったはずでは?
しかも一撃掠ったどころか、五~六発は何がしか被弾したと伺えるしさ。左膝から下は斬られるか折られるかした後に再生したか繋いだんじゃないの? 御召し物が血染めになってるじゃんか。奇妙に凹んだ左腕に至っては力なく垂れ下がり、動いていない。
火焔神フォティアに後押しされた元素術の威力は凄まじい。公子の得意技、四連装焦熱光線の二連発で処理し切れなかったとなると余程の強敵だ。
ボロけ度合いからすると揉まれたのは公子の方だものね。
でも、どなたにだろう? ジャオ・ハン女史自身は長く使徒の地位にあるけれど、武勇伝はほぼ聞かない。戦闘に長けた使徒ではないからだ。仮にジャオ・ハンが聖スコトスを連れて来たとしても、女性しかいない巡礼団には手を上げないのではないかしら。そう思っていたら……。
「ジャオ・ハンならば配送を済ませれば帰ったであろうに。誰を連れて来られた?」
「ええ、化け蛙を三人ばかり」
「要らぬ節介を焼かれたか」
「苦戦するつもりはなかったですからねえ。
……いやはや! 忝い、フュー・ダオ」
魔力不足を察した僕がそっと魔力玉を差し出せば、本質的に詠唱を必要としないチャーリー公子が変成術で身嗜みを整え始めた。着衣を染めていた血痕が消え去り、裸身を隠すようにゲル状の物質で黒い肌着が編まれる様子は手慣れたものだ。争いの内実を伺わせる奇妙な臭気も消散した。多分、瘴気の類だと思う。
「レベル10の小集団に対しては過剰ですね」
「お連れ様にしても下級使徒や闘士上がりの化け蛙だろうしね」
小声でジアンが囁いて来るものだから、僕も所感を述べはした。
化け蛙とはミーセオニーズの真の姿だけれど、人型から蛙型へ変身できるのはほんの一部の上澄みだ。貴人の家に生まれたとしても、変身できる個人はそう多くない。
見ているとチャーリー公子、転移前は魔力欠乏に陥る寸前だったみたい。結構な量の魔力を蓄えて美しく肥えていた魔力玉が見る間に痩せ細った様子からして、数日はゆっくり休ませてあげた方が良さそうだ。
何なら、エマトキシーアンにとって最良の供物である生き血が要るかもしれない。エマトキシーアンの聖餐用に作られた血豆腐なら、シォンドウの中央市場に売ってるよね? バシレイアンが好む鉱物の粉末や、エクリゾシ産の黒炭なんかと一緒に売られていた覚えがある。
「ほほほ。影憑きの公子よ、ダフネの代わりには誰が来ておったかの?」
「デオマイア姫です」
公子が口にした名前には誰もが驚いただろう。僕だって即座に杖を手に取るくらいには身構えた。
「……姫様が? 直々にか!?」
「ええ。影でも、遣いの精霊でもなく。鏡護りと暗黒騎士を連れてね」
「なんと」
あっ、それは……。ダフネの巡礼仲間と化け蛙御一行様とチャーリー公子、全員が可哀想な目に遭ったな?
ミラーソードとイクタス・バーナバの愛娘たるデオマイア姫でしょ? 狂土エムブレポで一番格の高い神族じゃんか。下世話な話をすれば、半神や土着神が求婚したい女ランキングがあれば地域内一位じゃない?
「であれば、姫様が勝たれた事に疑いはないが」
ダフネってば、あからさまに狼狽えたもんね。心術を極めた術師が心術を行使する事さえ忘れて動揺を晒すだなんて、よっぽどの事だ。
「青鐘公も当分の間は御満足でしょうよ。
デオマイア姫が散々に我々の血肉を捧げてから帰られましたので……。来年の今頃であれば、まだ捧げられた血を味わっておられるのではないですかねえ?」
語りながらごきん、ぼきゅん、と。
公子が骨折した骨を再建する重い音を聞かされたよ。何でもできるね、変成術。
「ダフネ、貴女には夏の宮殿へ引き揚げた巡礼団の御一同から伝言があります。……楽しみにしているそうですよ。何を、とは申しませんでしたけれど」
「そうさな。土産はよく選ぶとしよう」
僕と師匠はどうしたって? 互いの顔を見合わせて『チャーリー公子はミーセオニーズみたいな不誠実で大袈裟な報告はしないだろう』と見解を一致させた後、旅篭の給仕を呼んだ。
師匠はお酒と杯を、僕は公子に供するお料理の配膳を頼んだ。エマトキシーアンかコラプション スライムの貴人用にいい献立や素材があればお願いしたい。幾許かは虚空庫に鮮度の良い素材の用意がある旨を言い添えてね……。




