49. 隠れる君の御所
長距離転移させられた先でまず感じた事は、魔素の質の違いだった。自宅を構える山の心地よさとは質感が違う。緊張感のようなものが混ぜ込まれている。誰か別の者の縄張りにいるのだと悟る。遠くから轟々と響く水の音は滝だろうか? 霧が出ており、遠方はよく見えない。空気はしっとりと湿り、緑の匂いが強い。見慣れない植生だ。俺の作法ではないやり方で見知らぬ性質の結界が巡らされている。
「いるね、何か大きいのが……」
移動直後から鏡は警戒心を隠さない。大きいの、とは何だ?
ダラルロートは慣れた様子だ。この気配に対して親和しているのか?
「隠れる君の御所へようこそ」
「厄介になりに来た訳だが、誰に挨拶すればいい?」
どうにも周囲が気になる。落ち着かない。そわそわと浮き立つ気持ちがある。縄張りの主には早急に面通しせねばならぬ、と急かされているような焦燥感。獣道よりは明らかで道と呼ぶには叢の深い畦道が細く山肌を辿るように霧の中を続いている。
「上に管理者がおりますので挨拶に参りましょう。
面通しの後はこの地を避難場所としてお使いになれます。道々お話を致しましょう」
先導され、霧の深い山道を歩き始めた。
「この地は焼け爛れた身を癒すべくアディケオが住まいと定めた山の一つです。
管理者に認められぬ者は長く結界内に留まる事ができません。
管理者に拒まれている者は侵入はおろか、認識さえできません。
不正と水の権能によって作られた巨大な結界です」
隠れ家としては最高だろうな。……管理者に許されればだが。縄張りの主がどのような要求を滞在者にしているか解らぬ今は下手な術も力も使えない。俺は自分の山に入り込んだ霊獣だの魔獣が魔素を吸おうものなら叩き殺して喰らっていた。俺と同等かより苛烈な主である可能性は否定できない。鏡は大きいと言った。俺よりも強そうだと。
「管理者は滞在者に何を求める?」
「上手に隠れる事ですよ、ミラーソード様。
管理者もアステール相手に隠れ切った我が主ならば受け入れる事でしょう」
「だから隠れる君?」
「そうです、鏡殿」
「そうなのか」
……管理者は不正と水の権能の結界の中にいて、隠れるのが上手な事を滞在者に求めると言われてもよく解らぬような解るような……。
「神好みの特徴を持っていないとお膝元に置いてあげない、って事。神の聖域だよ」
「なるほど」
鏡に言わせるとそう言う事だそうだ。神の聖域だと。
山を登って行くと霧が濃くなる一方だ。先導していて表情は見えないが、長い黒髪を揺らすダラルロートの愉しげな声がする。
「霧が深まりますので離れませんよう。手をお繋ぎしましょうか?」
「ああん? 死にたいのかダラルロート。鏡はミラーにはちゃんとしたお嫁さんを見つけて欲しいの」
「そういう事はシャンディとでもやってくれ」
「ははは、足元にはお気をつけあれ。時折、悪戯者が遊んでおります」
怒り声を発する鏡を宥めに佩いた鏡の剣の宝珠に触れ、呻き声を出す。こうした者を小姑と言うのだと俺の中で教える奴がいる。知りたくなかった。俺がダラルロートに手を繋がれて歩いた日には諸共に鏡の手で殺されそうではないか。シャンディを連れて来るべきだったのか?
管理者以外にも定住した住人がいるような口振りではあったので注意して霧の中を探ると、確かに所々に扉のような魔力の幕がある。家の扉か?
「滞在を認められた住人同士の殺し合い、喰い合いは御法度です」
「そうであろうな。狩りなら外でやるさ」
「騙し合いが推奨されております」
「何それ」
「……化かし合いならいいのか」
「本性が見た目通りの姿の者は少ないでしょうな。
その意味では私もようやく御所の正しい住人になった気が致します」
神の考える事は解らん。俺は頭を振った。桟敷で別れたかつてのダラルロートと俺に生み出された今のダラルロートとでは身体構造が変わっている。まともな急所がない。アステールがいかに致命的な一撃を見舞おうとも、俺が癒す限りダラルロートが死ぬ事はなかった。幻術と欺瞞で覆い隠された本体を一撃で灰にでもしなければ死なないのではないかと思う。
「もしくは拒まれし異形アディケオに導かれたのか……。長生きはするものですよねえ」
「貴様は楽しそうね、ダラルロート」
「ええ、とても」
機嫌よく先導してくれるのはいいが、鏡が溜め込んでいる殺気のようなものにも配慮してはくれまいか。宥めるのは俺だぞダラルロートよ。本物のダラルロートには残骸と呼ばれていたが、分体めは楽しんでいる。それともダラルロートの姿形をした分体なりに思う事はあるのか。俺には霧の中を進む後ろ姿から男の本心までは伺えない。
「そろそろのようだが」
「はい、管理者がおります」
信奉者らはその醜悪を隠すアディケオ、拒まれし異形アディケオなどと呼ぶ者の代理人。結界の管理者。
魔力の幕を潜ると霧がすいと退き、空間が広がる。ダラルロートが俺に道を譲り、前に出るよう促す。森に囲まれたそう広くはない泉。一抱え程もある岩が一つ、祈りをよく篭められた縄で飾られている。
「分霊だ」
鏡が小さな声で囁く。神その人の半身、分霊だと。
「そうとも、よく隠れる者の狂気よ」
鏡に応えた声。鏡の声が聞こえている?
「よう参った、よく隠れる者よ」
岩の上からした声に注意を凝らす。ぎょろついた目と膨らむ頬、手足には水かき。緑色の体に白い腹をした小さな生き物がいる。カエルだ。指先の関節一つ分ほどの大きさの蛙が一匹、けろけろと喉を鳴らして俺に話し掛けている。
「お初にお目に掛かる、管理者殿」
縄張りの主への挨拶だと思えばそう難しくはあるまい。俺はその場に膝を付いた。肉体の小ささに欺かれて態度を誤る訳には行かぬ。
「よいよい、楽にせよ。名のなき者の用向きは知っておる。
よく隠れる汝に免じ、我が住まいへの滞在を許すものである」
管理者の言葉を受けた途端、俺が周囲の魔素から感じていた緊張感が消え去った。代わりに遠くから見守られる見ているようで見ていない視線、注視と言うほどではないが遠くからの関心を向けられている心地がする。
「許しを頂けて有り難い。俺はミラーソードと名乗っているのでそう呼んでくれ」
「この蛙はただ管理者と呼ぶがよい。蛙はアディケオその人であってその人ではない」
神の分霊と俺が会うのは初めてだ。分霊は俺には本名と呼ぶべき名がない事を知っていた。鏡に対しては『よく隠れる者の狂気』と呼び掛けた。鏡が俺の……狂気と言ったのか? 鏡は言葉を返さず、いやに静かにしている。蛙はダラルロートに向けてぴょんと跳ねて向き直る。
「ダラルロートは一皮化けたの」
「はい。アステール師相手に随分と舞えるようになりました」
「見ておったよ。そなたならば更にもう一化けできるであろう」
……ダラルロートは今でも充分化け物だと思うのだが、まだ化ける余地があると言うのか。俺に御し切れるのかね。そんな事を考えていた俺は気が緩んでいたようだ。
また蛙がぴょんと跳ねた。不意に向けられた神威で全身が粟立つ。崩れそうになった体勢を堪えて支える。
「さて、腐敗の邪神の神子とノモスケファーラめの聖騎士の子よ」
「神だもんな……」
アディケオの分霊の言葉に対して鏡が苛立ちを隠さない。
「アディケオの使徒にならんかな。
誘いを受けるならばアディケオはそなたに不正の権能を吹き込み、かわいいダラルロートを正式に譲ってやろうから」
―――アディケオとは交渉が可能です。アガシアと戦う前によくお考えなさい。
俺が殺した本物のダラルロートに言われた言葉が、耳元でもう一度囁かれた気がした。