433. 浄衣と白衣
カルコース(ベイ・チャーリー・ソン)視点
共寝の誘いはやんわりと退けられてしまいました。
ベイ・チャーリー・ソンとして、フュー・ダオへの求婚の意味合いを含めている事は確かに伝わっているのですがねえ。貴女は今はまだ、スカンダロンに身を捧げる井戸の巫女でありたいと仰った。
とは言え、十倍返しの異名ほどに強くは拒まれませんでしたので。一度灯った火とは容易くは消えぬもの。許容された範疇まではしっかりと踏み込ませて頂いております。
護衛を兼ねた看護と言う建前をみすみす投げ捨ては致しませんよ。真新しい白無紋の浄衣のまま寝台の傍に寄せた椅子に座し、経典を手に祈りを捧げる穏やかな午後を過ごしました。
不機嫌さを隠そうともしていないフロスヴァイルが診察に訪れた時には、既にフュー・ダオは寝台で寝入っておりまして。起こすには忍びなく、声を低く抑えての密談と相成りました。
「いいか? 医者として何度でも申し渡すが、フューリーは重体だ。睡眠妨害は控えて頂こう。強制覚醒は以ての外、毒物の投与も禁止だ。今日は自然な入眠だったんだろうな?」
「無論の事、迎楽寺の勧学として心得ておりますとも」
生憎と顔の良さでは到底フロスヴァイルには敵いませんので会わせたくなかった、などと言う事実には言及したくないものですな。アガシアはあまりにも不平等だったからこそ、美を司る神位から引き摺り下ろされたのです。
フュー・ダオお抱えの医師からは疑われていますが、眠りを強制する毒粉など撒いてはおりませんよ? 誘眠だの麻痺は変成術の中級術として広く知られておりますから、疑念を抱く事そのものは実に真っ当な判断ですけれどね。
今はあくまでも変成術師として、生体魔力回路の再生を要するうら若き乙女が魔素を吸収し易いよう魔素整脈で環境を整えているに過ぎません。
お休み中のフュー・ダオの手に緩く握られた魔力玉も当然、私が特段の配慮を以て生成致しました。魔力回路の損傷に対する最良の薬となれば、やはり近しい属性の潤沢な魔素ですからねえ。高等かつより効果的な上級術を修めておればこそ、安易に毒など用いは致しませんよ。
「ましてや頑健2に反応2と言うのは生物として大変に繊細ですので」
「仮にもレベル8の抵抗値ではないな。病的な虚弱さだ」
占術による鑑定は全ての生物を四種の抵抗値で測ります。
即ち、頑健・反応・意志・魔素の四種ですな。鑑定上の最小単位は1点ですので、赤子でさえも抵抗値1点を示します。エマトキシーアンであれば、幼子が3歳になる頃合いには頑健2や反応2を示す健康優良児もおりましょうか。生誕の祝福が顕著に強ければ抵抗値3や4もおりましょうな。
3歳児であるならば、至って発育が良いと褒めるべきなのですが……。彼女は16歳で、しかも早熟であるとされるエムブレピアンですからな。
「赤斑教に虐待されていたと疑うには充分過ぎる根拠だ。およそ真っ当な発育じゃない」
「貴殿の疑念はご尤もですし、実際に青指教に身柄を移された過去もお持ちですがね。生来の性質ではあるようです。狂土エムブレポを覆う常夏の密林地帯で生きるにはあまりにもか弱い」
耳を貸すべき告発ではありましょうよ。
赤斑銀行が保有する療養所の浄室で、私が魔素整脈で縄張りを主張し、他者の占術干渉を弾く結界を張り巡らせているのであればね。
「意図的に成長を阻まれているのなら対処できないのか?」
「治療や矯正を試みはしたようですな。卒乳不能を治癒できれば虚弱が解消される可能性はあるものの、治癒術を究めた青指教の大比丘尼が匙を投げた代物だそうで」
そんな知識を引き出すと共に激化の兆しを見せる頭痛には困ったもの。
「……となると霊魂の欠落、前世の罪業、器に余るほどの恩寵などが原因になりますので。治癒術のみで癒し得る弱点ではございますまいね」
虚言など申してはおりませんよ。私は誠実でありたいですからね、貴女に対しては。
好意の内訳として、深刻な弱点持ちとしての親近感も少なくない事は認めましょう。成人してなお生存の為に母乳を必要とするお労しさを、私はお可愛らしいと思っておりますよ。
「容易くはないな」
「ほぼ、不可能と同義ですからな。まして成功し得ない治療を試みられる毎に借金を積み重ねられるともなれば、か弱いお体に鞭打ってでも独立しようとはなさりましょうね」
ところが、フロスヴァイル的には不可能ではないようでして。
「だが、犠牲を伴う交換なら通るはずだ」
フロスヴァイルは良いですな、いつでも正気でいられて。
こうして接していると、正善神であるアガシアを崇めながらも正しき悪で在り続けた魂の輝きなり、波動めいたものを確かに感じられる。正しい方向へ向かおうとする意志がある。……好ましくはないが、羨ましい。喰らってしまえば私の属性も正しき悪へ傾きますかね?
「……ふむ? 検討すべきではあるのでしょうな。アンタラギが司る交換の権能は極めて強力です。いっそ不可能の方が少ない程であれば」
頭痛の不快感と共に生じた食欲を表情に出さないよう苦心してはいたのですが、正直相手が悪く。暗殺者が殺気を察せなければ、或いは医師が患者の病態を見抜けなければ仕事になりますまいよ。
「投機じみた戦争に一枚噛んだ事の是非は脇に置くとして、犠牲として捧げるに相応しい機会だったはずなんだがな。
鹵獲したのはアシメヒアの聖衣兵だ。それも万軍長が纏っていた聖衣から生じた高位精霊ともなればどれだけ貴重か知らなかったはずもない。仮に戦争捕虜として扱うなら、大司馬なり大将軍と一対一の捕虜交換が通るだろうよ。まして、マーザ様が提案なさらないとも思えない。どうなんだ、ミーセオの御坊様よ?」
「……」
即答は避けました。
聖衣兵とは器物の精霊で、百年の歳月の試練に耐えた不朽兵の巻布が霊性を帯びたもの。着用していた不朽兵の格に応じた強さの精霊が生じるとされ、万軍長ともなればその名の通り一万名のアシメヒア聖軍の統帥権を預かる将帥です。……この不快極まりない頭痛は、確かに惜しみなく知識を与えてはくれるのです。
代々帝国に大将軍として仕えるチャン家であれば、アンタケ商人が引き連れているアシメヒア聖軍との交戦機会もあったのでしょうからな。無論、世界中に蔓延らせたアンタケの耳目を持つアンタラギをも欺く程に密やかに。
「オレに答える気がないなら、それはそれで構わんがな。
女を口説く前に、だだ漏れの殺気と食欲は引っ込めるこった。優先順位の差にしても、三十路過ぎの吸血鬼だかスライムが思っているよりかは敏感だろうよ」
殺してやろうか。
何かが気に障るのですよ。言語化しかねる何かがフロスヴァイルにはある。彼の肉体には私の一部が寄生しているからには、占術は確実に通ると言うのに。
「手厳しいですな」
……火術で瞬間沸騰させる湯めいた殺意が湧きはしましたが、ええ。実行はしませんでしたのでお許し頂きたいですね……。苦言としては正しいのですから。いっそ忌々しいものですな、私が持ち得ぬ正しさなど。
狂いの生じた眼には私が着る白無紋の浄衣よりも、フロスヴァイルが着る草臥れた木綿の白衣の方が白く見えさえもする有様。……これはいけない。妬みが目に映る物の色合いまでも歪めている。
「そんな有様ではまだ彼女に話していない事の方が多かろう?
必要ならオレも同席しよう。あの馬鹿井守がいないうちに御坊様から話すべき事があるんだ、そこは高僧として弁えてくれ」
「仰る通りですな」
ええ、フロスヴァイルの言は正しいですとも。
「夕餉の折にでも、マー氏の最新経典と旱魃の呪具についてお話ができればとは考えておりました」
「それなら、今晩の乳粥には御母堂の樹脂を混ぜよう。母親の乳の香りを嗅ぎ取れば自然に起きてくれるはずだ」
「そうして頂けますか。フュー・ダオも喜んで下さるでしょう」
正しい上に、私よりも貴女への理解が深い。
「ああ。それと、処方した頭痛薬も期待したほど効いていないな? 薬を変えよう」
「そうですな」
「苛立ち紛れに患者の血を吸われちゃ堪らんからな。夕食後に服用してくれ」
「……お願いします」
私の事もよく見ていらっしゃる。本当に……。
食欲と殺意など一欠片も伺えぬよう、穏やかさに塗り込めた表情を作って微笑む労力の何とも多大であった事よ。




