F32. 父殺しの罪、母殺しの勲
何しろ相手はミン氏、コラプション スライムの一族である。
コラプション スライムは祖神たる腐敗の邪神に近ければ近いほど、生まれながらの悪であり、天賦の狂気と才気に突き動かされて衝動的に生きる種族だ。
軟泥属の劣等種の多くは多産多死だけれど、邪神の直系であれば生命体としての格が違う。具体的に言うと定命の者の到達点とされるレベル20を超越するし、飲み干して地獄へ送った魂の質と量も桁違いだ―――とはジアンの弁になる。
菩提寺の教祖としては、巾着袋に収まるほど小さな令嬢一人の言い分だけを鵜呑みにする訳には行くまいよ。
それでも可愛らしいお嬢様を水の巫女だと思えば、僕が戦ってやらねばならないのだろう。
ミーセオ帝国の守護神アディケオが司る三権は不正、水、統治。
青指教の経典を紐解くならば、三権の中でも水の権能こそが第一の権能であると見做されている。衆生に授けられる三種の異能のうち、水の異能こそが最もアディケオの覚えめでたい証だとも教えているね。
黄眼教主導の国家統計によれば、節刀の儀―――刀剣を賜り帝国への忠誠を誓う儀式―――によって統治の異能を授けられるミーセオニーズはそれなりに多い。不正神の分霊との接触によって不正の異能を授けられたミーセオニーズも同じくらいはいる。けれど、統計から明白な事実として水神アディケオは水の異能を出し惜しんでいる。
水の巫女の多くは戦う術さえ持たない。
井戸の巫女である僕からすれば、彼女らは驚くほど戦えない。政争や暴力から慎重に遠ざけられ、傷付きやすい生きた貴石であるかのように大切に仕舞い込まれる。
アディケオの寵愛篤い水の巫女を授けられた有力氏族は必ず繁栄する。
必ずだ。領地は天候不順とは無縁になり、渇水を知らない田畑は瑞々しく豊かだ。皇帝家の血筋が治める直轄領であれば水神の神威が土地の隅々にまで行き届き、百姓は河川とは氾濫するものだと知りさえもしない。
そのくらい水の権能は強いんだよ。
統治の権能が帝国の背骨ならば、水の権能は血液であり筋肉である。そして不正の権能は狡知であり、不可能を可能にする帝国の頭脳なのだ。青指教はそう教えている。
まあね、母殺しを勲とする物騒な種族とのお付き合いは魂の堕落を促されるだろうけれど。なあに、僕だって幼くして父殺しに挑んだ娘だ。親近感はあるんだよ、仲良くしようじゃないか。
それとも、僕は失敗者として軽蔑されるだろうか……。その点は心配だよ、勲を挙げていない訳だから。使徒と神格に介入されて阻まれた父殺しを恥とは思わないが、パパはまだ存命だ。
レベル12と言うのは、レベル8の僕からすれば首級として金星には違いない。偉大なる腐敗の邪神におかれましては、父の命を付け狙って16年の年季と色濃い悪属性を評価して欲しいものだ。
§
ともあれ、まずは情報収集。何事も現地を見ないと話にならない。
「と言う訳でやって来ました、が……何と言う事でしょう!」
「大仰に演出せずとも神々は常に見ておられるものだぞ、教祖様よ」
隣に座るフロスからのツッコミは聞こえなかった事にしたよ。
いやだって、現実逃避の一つも打ちたくなるよ。なんだって邸宅を中心にして瘴気が蠢いてるのさ! どなたの仕業か知らないけれど、皇都を地獄に変えないで欲しい。
七曜寺社は何をしている? 国軍はどうした?
僕らはミン氏の本邸じゃない方、百人が選ばれて第三使徒に差し出されたと噂のお妾さん達が囲われている別邸に行こうとして、人力車で移動して来たんだけどさ。
貴人の邸宅らしくはない、帝国臣民の大多数が血族単位で集住する木造高層建築物の一つから、ごつくてえぐい瘴気が垂れ流されていたら誰だってビビるし逃げ出すでしょ。
瘴気は聖気の対義語であり対抗概念そのもの。人に危害を加える有害なオーラだ。
商業区から僕らを乗せて来た流しの車力は完全に萎縮して足を止めているし、近隣の住宅や商店は固く門戸を閉ざして住民は気配を押し殺している。どう見たって、現在進行形で超高位の何者かがお怒りじゃん!
安全圏まで逃げた上で、帝国の守護神の庇護を求めて祈るのが正しい態度と言うものだ。僕には許されていないが……。僧籍の身の悲しさだよ、帝国の版図を侵す何者かを鎮めなくちゃなるまい。
……いやね、嫌な気配はあったのよ。
七曜寺社がそれぞれに執り行う礼拝への円滑な動線を確保する必要性から、皇都内では立体交差の通行止めや船舶の通行優先指定と言った交通規制が敷かれるのは珍しい事じゃない。
だけど、片っ端から水路を止めているのはおかしいなって思ってたよ! やばい事になっているなら隠すな、警告くらいしろ! 全く、隠蔽と収賄ばかり上手い第一軍め。
「ちょっとお嬢様に訊いてみましょうね。あちらはどなた様で?」
商業区で買い求めた桃色の巾着袋に収まり、相変わらず水の聖気を放出しているお嬢様に触れながら訊いてみた。お嬢様はにょろりと一本だけ触手を出して僕に触れ、無音でニュアンスとイメージを伝えて来た。
「……怖い人だって事しかわかんないな。
ジアン、どうなってるのさ? 近付いたら修羅場なのでは? 聖気って瘴気とぶつかったら弱い方が打ち消しよね?」
「そうですよ、フュー」
ジアンはジアンで、なんだか投げ槍だ。明らかに機嫌がよろしくない。
お嬢様の水の聖気はまだ打ち消されてはいないけれど、遠目にも色濃い瘴気よりも明らかにずっと薄い。目に見えて強度に格差がある。冬の権能に捧げられた大型冷凍庫に春の気配を纏った綿毛が一つ飛んで行っても凍るだけじゃないかな、みたいな。
「僕、一番槍って柄じゃないんだけどね」
「ですが、先方の怒りを鎮め得る定命の者は貴女とミン氏の娘ですよ、フュー」
大きめの溜息の一つや二つは許されるよね、これ? 何回目よ。
「また見えてて黙ってたね、ジアン」
尻尾を巻いて詫びるような空気を出さないで欲しいよね、毎回じゃん。
「スライムくんもか? ン?」
「オレの見解としちゃ狸寝入りだと思うね」
「だろうね」
僕に求められているお仕事は、瘴気を垂れ流してお怒りの何者かを宥める事だ。多分、迫力から察してレベル20か20ちょっとくらいの。となると……アディケオの第三使徒ミラーソードの母君、大ミラーソードだよね。
噂として、女衒が血族を見たからと走り寄って来て処刑したとか、たった一人で千を数える敵軍を一瞬で虐殺したとか聞こえて来る、あの大ミラーソード。
コラプション スライムの苗床にされた母体が、子に眷属として従うもの。真名を剥奪され、聖騎士から堕ちた暗黒騎士。
見えている地雷だよ。僕、生きて帰れるかなあ!




