44. アガソスの足掻き
頭の中が整理されたのはごく最近の事だ。整理してくれた男を信用できたら俺も心安らかだろうに。
系統立てて物事を考えるのが得意な者を喰らった結果、混ざって混乱していた記憶が元は誰のものだったのか明晰になった。逆に言えば喰う前は頭脳労働が不得意な命ばかり喰っていたのだろうか。それとも異界の邪神に授けられた狂気が強過ぎたのか。産まれてから一年生きた事で聖騎士だった母の記憶については整理されつつあったが、整合性を整えられてからは思考するのがずっと楽になった。今後、俺が何をすべきかも解り易くなった。ようやく主敵も動いた事だ、ミラーソードとして対処する。
その日、俺は自宅で眠っていた所を鏡の呼び掛けで起こされた。鏡によって室内に灯りが点された刺激もあり、身を起こす。
「ミラー、ミラー」
「ん」
夜中に揺り起こされた経験は殆どない。俺の不在中にリンミ市中で何が起ころうとも、三人の腹心の中でも筆頭たる太守ダラルロートが対処し鎮圧していた。俺はと言えば、リンミへ長距離転移で飛んでから何があってどう対応を終えたか結果のみを報告されて来た。
抜き身を晒した鏡の剣が宙を舞い、俺の眼前で静止する。通常は鏡として金銀混淆した頭髪と青い瞳の俺を映す刀身に、今は整えた長い黒髪と黒い瞳の中年に見える男が映っている。俺の鏡に似せて打った鏡の剣にはリンミと山中の自宅を繋げられる強さの伝話を付与して太守に授け、緊急時の連絡に用いる取り決めをしてあった。常人には聞こえぬ鏡の声を聞き取らせる能力もある。
「ミラーソード様、御報告を」
太守の顔と声に動揺は微塵もない。何しろかつて太守も人食いスライムの俺を襲おうとした程度には化け物だ。そこいらの軟弱な魔性や妖怪、冒険者如きものが相手であれば一方的に蹂躙する。今までに上げられた報告の内容を信じられるならばだがな。占術の中でも特に欺瞞に長ける太守が見せるものの何が真実で何が虚偽かの境界は常に怪しい。油断ならぬ男だったし、今でも欺瞞の帳を絶やしてはいない。太守の真の姿を見通せる者は少なかろう。
「アガソスか?」
「はい。アガシアの第一使徒による長距離転移を結界が妨害しました」
リンミは表向きアガソス正国に恭順を表明した街だ。太守はアガソスの伯爵位を持ち、リンミ伯爵と名乗っている。
しかしリンミの主敵はアガソスだ。現実には次の戦でミーセオ悪国との同盟を約束しており、太守はミーセオのリンミ守護として参戦する。そしてアガソスを滅亡に追い込んだ後、リンミは独立する。次の戦でアガソスは四日と持たずに王城を陥とされて滅亡するのだ。
リンミはアガソスに対する態度を恭順から関係断絶を見越した露骨な非協力へと変えていた。しかしアガソスの反応は外交官を使っての抗議、冒険者を差し向けてのテロ行為、或いはアガソス王家によって契印を奉られる正なる善神アガシアの使徒による武力行使に留まっている。アガシアは愛と美の権能を持つ女神ながら戦いに関わる権能が弱く、アガシアの使徒もまた俺と太守からすればか弱い存在だった。ただ一人、アガシアの第一使徒を除いては。
「いよいよ来たね、ミラー。第一使徒だってさ」
「向かう」
鏡の声はどこか楽しげだ。短く太守に応えて目線を交わせば、鏡の刀身から太守の姿が消えて俺を映すようになった。以後、太守は適切な防衛指揮を執る事だろう。
リンミへの長距離転移の前に武装を検める。絹布に銀糸で邪神の聖句を縫い込んだ御札、緊急脱出用の長距離転移を篭めた首飾り、使い込み手に馴染む戦槌、一対の双剣、黒塗りの板金鎧、占術防御の護符を筆頭とする護符類、魔術の行使を支援する類の指輪を複数、小箱に収めた眼鏡、若干の水薬。睡眠を中断されたものの、術と血の用意も問題ない。
「いいんじゃない、忘れ物はなさそうよ暗黒騎士様」
俺の帯剣たる鏡の剣を華美な鞘に納めて佩けば支度は終いだ。俺はリンミへ長距離転移で跳ぶ。俺の魔術行使に呪文など要らぬ。真の魔術師とはそういうものであるし、俺は父なる腐敗の邪神に仕える暗黒騎士として振舞う事にこそ喜びを感じられるのだ。




