397. リンミの権益
お化けを心地よい住処に立ち入らせはしない。
俺は断固たる決意を以って、あいつに対して俺自身の聖域にしている琥珀の館への立ち入り許可を取り消し、永久に立ち入りを禁止すると宣告している。契印を持たない半神とは言え、神格自身による追放宣告に逆らうなら、その行いは宣戦布告に等しい。
あいつからは、俺と戦うつもりはないから立ち入り禁止を解いて欲しい旨をマーザから伝言されたがね。
嫌なこった! 何でも先方は俺と直接話したい事があるそうだが、面談の申し入れは全て却下だ。何が『私は今もミラーソード様の忠実な臣下です』だ! 白々しいわ、リンミの大君め! 臣下の礼とか要らねえから。
あいつとの接触は全て、信頼できる代理人にさせている。
俺自身は琥珀の館に巣篭りして、戦術級術具の建造に専念している。リンミに設置している術具はくれてやるから、新しいのを拵えている最中だ。
小腹が減ったか、と思えば楽しげな住人の声がする。
「後ろのー、おやつはどうするー?」
「隣の仕事が終わったら茶を汲もうじゃないか」
「ほーい」
……俺も休憩しよう。
機能を詰め込んだら建造の難易度が高い設計になっちまった。
召使いをしているサイドミラーとバックミラーは弱いから、リンミに置いていたらいつ操られるか知れたもんじゃない。弱いと言っても、俺に比べればの話だぞ。そこいらの生き物よりはずっと強い。それでも油断ならんのだ、リンミニアンの英雄は。
ともあれ琥珀の館に帰って来させ、今は掃除と洗濯をさせている。
影武者二匹は茶汲みや細々とした料理をしたがったから、父用とは別に煮炊きができる台所を用意してやった。併設した食糧保管庫の管理を命じたら喜んでいたぞ。
相部屋で二匹暮らしをする影達に表立った不満はなさそうだ。
下水道の鰐どもだって―――俺の意向に背いた影武者を意味する暗号だ―――最初から忠実だったなら大事にしてやったのにな。処分した鰐の多さは、素の俺がいかに暗愚かを教えてくれた。
鰐どもはどうして、与えられたちっぽけな力で俺に逆らえると考えちまったんだろう。馬鹿だからとしか評しようがないじゃないか。影ならぬ影は俺の知性の足りなさを暴き立てる実に危険な術式だ。
ともあれ、邸内は影二匹が掃除をして回っている。少なくとも即席人形よりは目端の利く衛兵だ。間食の自由くらい認めようではないか。異物に対する番犬程度の働きを期待している。
ダラルロートは腐敗の邪神の他にアンタラギからも恩寵を授かっているから、アンタケ達が交換の異能でやらかしてくれた事の真似をしかねない。無理に立ち入るなら、一刻以内にそなたの縄張りを汚泥に変えてやるとは通告済みにしてもな。
今の所、押し入って来てはいない。来た日には当人を殺すだけでは済ませない。……戦うのは俺自身ではなく、母さん達になるとしても。
本当はさ、妻にはあいつのエムブレポへの出入りを禁じて欲しかった。
けれどリンミをエムブレポの版図として組み込んでいるイクタス・バーナバが追放を宣言すれば、ダラルロートはリンミから出て行く必要がある。
妻としては、兄から契印を巻き上げる事になりそうな小神には親切にしたいそうだ。親しく付き合うなら、子らの不運を退け、敵に不運をもたらしてくれる有益な神格だろうからと。
だからリンミの大君がリンミを版図としたいなら、イクタス・バーナバが後援神として立つってよ。不細工な蛙に食われて欲しくないんだと。関わり合いになりたくない俺は冗談きついんじゃねえのと嘆いたが、妻は乗り気だ。
妻が何と言おうと、俺はけしからぬ手合いと会う気はない。
結局、あいつとの連絡役 兼 交渉役はアステールになった。
しゃあねえだろ、他になり手がいなかったんだ。一番頭のいい手下は誰だよと訊いたら、票をピーちゃんやヨヨにまでくれてやっても全会一致でアステールだった。ここは一つ俺の為に、正しき善の者の嫌味ったらしさを披露してやってくれと委任した次第だ。
デオマイアはエファやゼナイダの袖を掴んで手放そうとしない。
ゼーロスを茶に招き、護って欲しいとお願いまでする有様だ。俺に似て根が単純な息子は、姉姫との面会を邪魔していた宦官がいなくなって上機嫌だ。
俺がコルピティオと父を連れ出そうとすれば、愛娘は不安そうにコルピティオの逞しい腕に縋り付く。コルピティオはデオマイアの頼みを決して無碍にはしないから、俺が自分の為に使える手下はアステールとピーちゃんくらいになっちまう。
そうだ、愛玩スライムのフィロスの話をしていなかったな。
フィロスはダラルロートの自立後も変わらぬ様子で、デオマイアに懐いていた。けれど気味悪がったデオマイア自身の手で、魔物封じの袋に封印された。レベル16のコラプション スライムを封じた巾着袋は供物共々祭壇に祀られ、不運神の許へ謹んでお返しする日を待っている。愛娘曰く怖くてたまらないから、もう侍らせたくないんだと。
フィロスは俺の孫みたいなものだから、ちと可哀想ではあるが……。俺とて、フィロスを以前と変わらずに侍らせたくはないものな。
偏愛の司直カーリタースはと言えば、アステールをダラルロートに奪われたくはないそうで積極的に現世に顕現している。愛しい母の庇護が欲しい俺じゃなくて、使者働きに忙しいアステールを護っていると言うのが解せねえけど。
俺だって、一人にして欲しくないのにさ。俺には影どもとイクタス・バーナバがいるからいいだろって扱いだ。そりゃあ妻は俺を護ってくれるだろうけれど、積極的にあいつに肩入れしそうな意向を示している。不安は消し切れない。
アステールは巣篭もりする俺を日に一度は訪ねて来る。
俺は研究室の隣室に設けた応接間でアステールとカーリタースを迎えた。サイドミラーとバックミラーは、客に出すおやつも作り置きしてくれている。後で褒めてやろう。
「ミラーソード。
ダラルロートは、リンミの支配者は依然としてミラーソードであると主張しておるぞ。卿とイクタス・バーナバはリンミをどうしたいのだ」
「どう、つうてもな。妻はあいつが神格化するなら後援する」
「卿自身はどうする」
「あいつを俺に関わらせないでくれい」
だって俺、関わりたくねえし。
先方の意向がどうあれ、お化けの手下だなんて無理過ぎる。考えだけで眩暈だか吐き気がする。俺が思うに『生理的に受け付けない』状態なんだと思う。殆ど条件反射で気持ちが悪くなる。あいつの事を考えたくない。名前を聞かされるだけでも、擬態した腸が逆立ちだの逆上がりを始めそうなんだ。
「関わりを断ちたいのならば、当面は慎重な交渉を要する。
あやつは卿との縁に執着を見せておるからな」
俺は両手で両耳を覆り、全ての六眼を固く瞼で閉ざした。
何だよその、物凄く聞きたくない表現は。勘弁しろやアステール。だがアステールは淡々と説明を続けた。俺の五感は耳を塞いだくらいではどうもならんのだ。
「先方からは財産の扱いに関して質問を受けている。ミラーソードの私財と看做されているリンミの財物は多いぞ」
アステールが列挙する俺の財産は少なくなかった。
「卿は聖火堂に絶えざる油壺と満たされし聖釜を安置している。
金の卵を産む雌鳥が百九十二羽おると言う申告もあるぞ。
卿らの血族が株式を保有する親族経営公司も数社ある。
リンミ旧来の外壁に祝福を与えた第一外壁はまだしも、卿の魔術によって無から建築された壮麗な第二外壁は、卿抜きで保全する場合の費用の算定は困難を極める。建材が未知かつ宝玉めいているからには、補修できるのは卿か鏡殿だけではないのか」
俺の縄張りだと思って、好きなようにやったツケかなとは思う。
アステールが挙げた事柄について、億劫に思いながらも一つずつ答えてやった。
「旧式の油壺と聖釜はどうでもいい。新しいのを建造中だ。
金の卵はピーちゃんの仕業だ。生きている間は、金山だと思って養えばいい。
公司は夏の都に引越しできるものは引越し、できないものは廃業。
俺が建造した外壁はそう簡単に壊れやしねえし、最上級術を扱える変成術師になら補修できるだろうよ。俺抜きで使い続けたいなら、変成術師の頭数を揃えればいい」
金銭的なものは正直どうだっていいんだ。生贄を集め続ける必要があるだろう悪神には有用だろうから、くれてやる。毒饅頭として使えばいい。
「二人の意見を聞きたいのはさ。
リンミニアの臣民が俺やイクタス・バーナバに捧げてくれている信奉についてだ」
関心があるのは信奉だよ。リンミニアから得ている信奉を丸々失う覚悟はできていない。人口にして二万足らずとは言え、国教に定めた聖火教の浸透率は高い。腐敗の邪神への信仰を奨励してもいた。
偉大な祖母からすれば少量のおやつに過ぎまいが、祭壇に気に入りのプリンを食べに来たら用意されていなかった情景を想像してみろ。不味い事態だと解ってくれるだろう? 邪神の上王とは、一度崇拝を始めたならこの世の終わりまで崇拝し続けなければ罰せられる存在だ。
「ティコス義兄上の契印をせしめて悪神になるなら、婆ちゃんとあいつ自身へ信奉を捧げさせるだけで手一杯になるんじゃねえの。
契印ってのは、強力であればあるほど維持するだけでも大変らしいからな。
アガシアの第一使徒だったそなたなら、ある程度の理解はあるのだろう?」
アガシアの名にアステールは反応を見せなかった。
アディケオに呪われて外せない仮面で常に表情を隠しているから、表情が読めないのはいつもの事だがね。反論なき沈黙だ、肯定ではあるのだろう。
「聖火教の信者が捧げる信奉については私も受け取っている」
物憂げに声を発した男の肌には、黒い鱗が継ぎ接ぎめいて生えている。
他人事でないのはカーリタースにとってもか。聖火教は黒鱗の鉄拳カーリタースを守護聖人として祀っている。
「私自身は半神の位階に相当する司直だが、得た信奉を供物として我らが神に捧げる事はできるのでな。供給が途絶えるか減少するならば、手当てが欲しい。
我が子とイクタス・バーナバがリンミをくれてやるならば、そなたが第一位として権益を主張できる新たな支配地を開拓してはどうだろう。夏の都をエムブレポ唯一の拠点とし続ける場合、養える人口には限界がある」
「そうか。一から開拓する話をすべきか」
愛しい母からの建設的な要望だ、叶えてやりたい。
あいつの助力なしに都市を建設するのは、さぞや面倒だろうがね……。
俺はアディケオから授かった統治の異能に頼る事もできるが、頼るならアディケオへの信奉の上納が必須になる。母は『第一位として権益を主張できる』版図が欲しいのだろ。アディケオに依存するとアディケオに権益の大部分を持って行かれてしまい、よろしくない。
大君として、あいつはリンミニア大君領の同盟国であるミーセオ帝国からの影響力をほぼ最小にまで押さえ込み、俺の要望を叶えてくれていた。
俺自身やバックミラーだのサイドミラーの統治の手腕では、ダラルロートほど上手くはやれまい。物真似はできるだろうが、模倣以上の理想的な統治ができるとは思えない。地頭の良し悪しが随分と違う。
「アステールに統治させるのも一つの手段ではあろう」
「アステールなら実力はあるだろうけどよ。
アガソスみたいな都市にされそうでどうかと思うぞ。
俺達は婆ちゃんに頼み事をする時、臣民も生贄にしなきゃならん。罪人だけで足りるような食欲じゃねえからな」
母が俺の司直になった時、リンミの市民の一割を捧げた混乱はまだ完全には収まっちゃいないはずだ。
生贄になった者だけの問題じゃない。家族や友人を捧げられた者、勤め先が区画毎潰れた者も多かったんだ。諦め切れずに家族を探し回った者を何人か、聖火堂の地下で喰らった記憶が俺にはある。温かな家庭を形成していた家族を全て捧げられたちっぽけな魂や、思い定めた番と赤子を失った悲嘆の深い魂を祖母へ捧げたのは、俺なりの慈悲だった。
あいつは大寒波に見舞われるミーセオ帝国を横目に、リンミが失った人口を急速に回復する為の施策を打っていた。成果についてはまだ報告を受けていない。今や聞きたいとも思わないがな。俺のリンミへの興味と庇護欲は色褪せ、あいつが俺に接触するなら報復として滅ぼす対象でしかなくなっている。
「アステール。版図と金銭はくれてやれ。
俺達の関心事はリンミから捧げられる信奉だ」
結論としては信奉に関する事に尽きる。
「では財物の引き渡しを代価として、敵対行為を禁じ、一定の期間は現状の信仰を継続させるよう求める方針でよいのかの」
「何年かは現状を維持してくれると助かるが、まあ減るだろう。
俺とカーリタースに捧げられる信奉の嵩が減る事は承知できるが、婆ちゃんへの信奉を減らし過ぎないように警告はしてやってくれ。
俺は信仰されなくなっても人を罰しはしないが、婆ちゃんは主菜の背教者を食べに来るついでに、隣人や支配者を副菜にしちまうぞ」
警告なんてくれてやらずに、新米神格の自滅を待ってもいいんだろうけどさ。俺にはあいつとリンミへの情もまだ少しはある。
「ダラルロートならば上手くやるであろうさ」
つまらなさそうに言う偏愛の司直にはなさそうだ。あるのかもしれないが、ないと言う事にしたい。
俺の中からあいつが去って以来、ミーセオの茶道に関する印象は日々ぼやけている。俺はアガソスの茶芸に則って香気豊かな薄い色合いの茶を淹れ、アステールを労った。




