377. アンタケの商い
第一執政バックミラー視点
「ミラー、捨て置く事は許されぬぞ」
「そうは言うがね、母さんや。俺達には無理なのではないのかい」
困り果てた様子のミラーソードは、助けて欲しそうに六眼を四方八方へ向けている。けれど目を血走らせて息子を組み伏せ、怒鳴りつける完全武装の暗黒騎士の諌めに回りたい者などいやしない。
おお、怖い、怖い。母御の恐ろしい事と言ったらない。卑しき影に過ぎない俺では到底、太刀打ちできない。
「地下迷宮には俺、夏殺しの件でほとほと懲りたんだよ」
「地下迷宮と神性迷宮は天と地ほども違うぞ、ミラー」
ミラーソードの返事が気に入らなかったのだろう。コルピティオの体躯が金属鎧を弾けさせる勢いで一回りか二回り大きく膨張し、根性なしの放蕩息子を絞め上げる強さを更に増した。ミラーソードの潤んだ六眼は「助けてくれ」と切実に訴えている。
コルピティオの怒りの鉄拳制裁など受けた日には、掴まれた瞬間に死が確定しちまう。掴まれた後は、投げと打撃を繰り返されて死ぬ未来しか視えない。戦闘特化のレベル22にレベル16が戦いを挑むなど、無謀極まりない。俺は行政官だ、断じて戦馬鹿ではない。
即座に腹を見せ「卑しいわたくしめは虫けらです、踏んで下さい」とばかりに慈悲を請うたとしても、まだ助からないだろう。運命とは逢わないようにするしかない。事故に遭わないようにしろと言う話かもしれないがな。
戦いを免じられたとしても、撒き散らされる腐敗の瘴気が大君の館を腐らせようとしやがるし、堕落の闘気を軟弱な定命の者が浴びれば発狂してしまう。
俺と弟は、腐敗の瘴気に対する防御魔術の展開だけでもう一杯一杯だよ。俺達自身はミラーソードに授けられたメダリオンによって腐敗と堕落の悪影響から護られてはいるけれど、執政としては忠実なリンミニア臣民である職員を護ってやらなくてはならない。
そう言う次第だから、俺は一切の口出しを謹み、変成術による空気の清浄化に取り組んでいる。高位の暗黒騎士が狂気的な怒りに任せて垂れ流す腐敗の瘴気だぞ? 清め、無害化するのは一苦労だ。
露台に設えた寝椅子で転寝を楽しんでいた所へ乗り込まれたミラーソード自身は、すっかり泡を食ってしまっている。瘴気の防御や中和どころではない様子だ。
迷宮から戻ったばかりの弟は防御に回す魔力が足りぬらしく、濡れた髪から滴る水滴が腐汁に変じるなどしている。なあ、見てくれよ、ミラーソード。そなたが弱く設定してくれたせいで、俺はこんなにも必死なのだぞ!
……いい気味よな。
深層意識の奥底で、そっと舌めいた触手を出す。制裁されて泣き叫ぶ馬鹿殿の姿を鑑賞する機会だと察知した俺は、宥めた弟を一風呂浴びて来いと追い出した後、すぐに厨房へ駆け込んだ。
鏡の剣に宿る神子の言いなりにパンケーキなど焼いてらした母御に、調査隊の発見物について御注進してやったんだ。
『ノモスケファーラの神性迷宮を発見したと言うのか』
『はい。ミラーソード様は露台に寝椅子を出して昼寝中につき、間食の御用意をなさっている御二方へ第一報を御届けに参りました』
『よかろう。……そなたは第一執政だな? 同行せよ』
コルピティオはバックミラーと言う、俺の偽名を覚えてくれてはいなかった。
まあ、いいのさ。俺は偽名を真名にしたい訳でも、相応しい誰かに名付けて欲しい訳でもない。いつかは自ら思い定めた真名を名乗るか、魂を奪い成り代わった者の真名を称するつもりでいる。
「お母さん、そろそろ勘弁してあげなさいよ」
お楽しみの時間は神子の仲裁で終わってしまった。
ミラーソードに対する同化吸収を試みていたコルピティオが不服げに鼻を鳴らし、侮蔑を隠そうともせず軟弱な息子を見下ろした。
ミラーソードの肉体は下半身がコルピティオに呑まれ、上半身もふるふると痙攣するばかりだ。
死者めいた顔の母に耳元で何事か囁かれた途端、ミラーソードの抵抗が明らかに弱まったからな。お化けを出汁にして脅され、発作を起こしたのだろうとは察した。察した以上の思考は、意志力を総動員して止めた。今も止めている。考えれば、俺も死ぬ。
「そのまま丸呑みにしたが最後、お母さんが超重篤幽霊恐怖症の患者になる。
ダラちゃんとマーザちゃんが、嬉々としてお化けの話をしながら言い寄って来る未来が視えるぞ。お母さんとしてはどうなのさ」
「……そうよな。そうであろうな」
勇敢なコルピティオですら罹患を嫌がる弱点が幽霊恐怖症だ。
邪神の福音たる超重篤幽霊恐怖症とは、何度耳にしても呪わしい響きである事よ。
ミラーソードの影である俺も重篤幽霊恐怖症を患ってはいるが、超重篤と重篤の差は大きい。俺はミラーソードほど深刻に透けたものを恐れずに済んでいるにしても、死ぬほどの恐怖に晒されたなら何も解らないままに死ぬだろう。魂のない俺にとっての死とは、蘇生も来世もない全き死だ。
コルピティオはどろどろに溶けたミラーソードの一部を吐き出し、何やら繕うように捏ね合わせて人型の擬態を取り戻させた。けれど何やら痩せているし、鱗がない。吸収の過程で引き剥がされた白い鱗は、露台の床に花弁めいて散らばっている。
千切られた立派な上着に素っ裸の下半身と言う有様を晒すミラーソードに、心優しい弟は厚手の亜麻布を掛けてやった。
「食べたね?」
神子の言葉を聞き付けた俺は、直ちに魔術的な気配を欺瞞した簡易鑑定をコルピティオへ連射した。レベルだけでも判じれば充分と思えば、案の定レベル22だったコルピティオはレベル23になっていた。
「神子よ。ミラーがやらぬと言うのなら、私が神性迷宮に挑むべきだとは思わないか」
「その理屈はおかしいでしょ、お母さん」
「イクタス・バーナバの同意があるとしてもか」
夫を助けずに黙っていると思えば、イクタス・バーナバとコルピティオの間には何やら同意が形成されたらしいぞ。勝ち誇るように告げた暗黒騎士に対し、鏡の剣は不満げな呻き声を上げた。
「ぐぬぬ……。本当にやる気なの、お母さんにイクちゃん」
「本来ならば、エマトキシーアの正神どもに対して課された試練であろうからな。
試練を突破したならば、膨大な水量を蓄えた地下貯水池が開放されると推測できる」
「それって推測なの? 見て来たように言うけど」
暗黒騎士としての威を増し、傲然と露台に立つ暗黒騎士は狂信的な眼差しで北を睨み据えた。
「私を誰だと思っているのだ、神子よ。
ノモスケファーラに第一使徒として仕えた聖騎士から真名を剥がし、地獄へ堕としたのは紛う事なくそなたであろうに」
「僕は僕であって僕じゃないんだけどなあ」
……コルピティオの笑い方が怖いぞ、真剣に。彼は鏡の剣の返事が御気に召さなかったと見え、柄に嵌め込まれた銀の宝珠を狂的な執着を滲ませる手付きで抉り出そうとさえした。
破壊と言う概念を退ける《非破壊》の魔力回路が摘出を阻みはしたけれど、コルピティオの面構えはどう見たって正気ではない。母御は御乱心だ!
「ねえイクちゃん、お母さんに金棒を持たせるのはよくないと思うのよ。
食べさせたミラーの一部を抉り出してくれない? それか、僕の愛しい人をノモスケファーラから護ってくれるんだろうね?」
護らなかったらイクちゃんの切り身をかーちゃん特製の味噌漬けにしてやるぞ、とまで腐敗の邪神の神子は口にした。神子が口にする「かーちゃん」とは腐敗の邪神その人を指す。
イクタス・バーナバは返答を明言しなかった。神子の反応からすれば、神子の意見は通らなかったのだろう。
「カーリタースまで賛成なのかよ!
そんなに地下迷宮だか神性迷宮が好きなら、もう勝手にしたらいいんだ。お父さんはお弁当を作らないからな!」
鏡の剣の刀身を露にし、宙を舞う神子は病んだ金切り声を上げて飛び去ってしまった。方角から見て厨房だろう。神子が料理で創造意欲を解消する分には、それほどカネは掛からない。好きにやらせよう。ミラーソードのように派手な鏡張りの何かを建てる訳ではない。
結局、ミラーソードはイクタス・バーナバの同意を取り付けたコルピティオとカーリタースの意向に逆らえなかった。
大君ダラルロートの名において、ヴィオテア山中で発見されたノモスケファーラの神性迷宮の存在が大々的に公表され、現地への直通転移陣が皇都アディケイアとリンミに設置された。
両国共に転移陣の利用は有償だが、入場料はさほど高くない。
帝国側から飛んだ者はリンミ側へは出られない。帝国と締結した契約により、転移陣に高度な暗号化が施されている。
帝国側の転移陣は発掘品に対して八割の税を課す代わり、挑戦者の身命について保険を取り扱っている。戦死者が指定した受取人に対して遺族年金が出る。
リンミ側の転移陣は発掘品に対して課税をしないが、保険の販売はない。一攫千金を望むならばリンミ側から飛べと言う話だ。税が高い分、挑戦者への支援が手厚いのは帝国側になる。ここだけの話ミラーソードが乗り気でない為、リンミ側は一応の体裁を整えただけなのさ。
確実に儲けているのはアンタラギの第二使徒マーザだ。
大君ダラルロートと密談を繰り返したアンタケ達は、連日調子っぱずれの歌を大君の館の食堂で機嫌よく唄いまくった。監視網で様子を覗く俺は本当に辟易させられたぞ。メーンゲニの野郎も伴奏なんかするなってんだ。
「♪たのしいきのこ~」
「♪うれしいきのこ~」
「♪迷宮には永代の栄光が待つのこ~」
「♪ノモスケファーラの試練が挑戦者を待っているのこ~」
神性迷宮の攻略者に与えられる恩典は、攻略者の子孫が末代まで食って行けるほどの金銭的成功を伴うそうでさ。子沢山のミーセオニーズとしては、子らに捨扶持を稼がせるよりも保険を掛けて迷宮に挑ませる方が利が大きいそうだ。ミーセオ帝国において人命は安い。
アシメヒア聖国きっての豪商マーザは、挑戦者を相手に武器、防具、雑貨を大量に売り捌き、大層景気がよろしいようだ。商売としてそれだけではない、と言うのが味噌だな。
「エムブレピアンには迷宮探索をお勧めしないのこか、ミラー。
浅層については挑戦者向けの地図が揃いそうのこよう。今ならまとめた上に複写権付きで売ってあげるのこ。お買い得のこよ」
「冗談抜かせ! 俺は地下迷宮なんか大嫌いだ!
そも、エムブレピアンは少ないんだぞ。もっと数を増やしてからなら考えてやらんでもないが……」
「大丈夫のこ、アンタラギの子らが安全に離脱させてあげるのこよ」
表向き、笑っているのはマーザくらいだとは思う。
神性迷宮と言うものは召喚術による転移を入口以外の全域において禁じているのだが、交換の異能を授かったアンタケが商売をしにやって来ると話が変わって来る。交換の異能には位置を交換する能力が含まれるが、相当に強力な転移封じであっても軽々と無視しやがる性質がある。国家安全保障上の脅威と看做されて然るべき種族だぞ、アンタケどもは。
「随分と高いだろうがよ」
「のここー。大丈夫のこよ、脱出手数料は帝国迷宮会計法に則って経費として計上できるから、アディケオとスカンダロンに納税すべき税金はちゃんと減るのこ」
「そなたは真面目に刺される心配をした方がいいぞ、マーザ。
迷宮絡みで一番儲けているではないか」
ミラーソードの非難も何のその、マーザは楽しげにのこのこ言いながらパフェを楽しんでいる。愉快そうだな、貴様らは。俺は少しばかり憂鬱だよ。
大君の館に張り巡らされた監視網の真の主、リンミの大君ダラルロートとの私的な面談に向かうべく、俺は傍受を一時打ち切った。
隣の席は今日は空だ。弟はコルピティオのお供で迷宮探索の最中なのでな。
……碌な話をされる未来が視えねえけど、会って来るとしよう。




