36. 煮ても焼いても食えない男
「お招きに預かったミラーソード様の夕食の席です、楽しませて頂きますよ。
ははは、司教殿に茶を点てられたと自慢された時には本気で切り刻んでやる寸前でしたが。やはり、長生きをするに越した事はありませんねえ」
笑いながらしみじみと言うのはダラルロートだ。黒髪に黒い瞳。リンミの太守。
俺の記憶の整合性に巨大な疑問符が点灯する。どう言う事だ? 何がどうなってこうなった?
「……何故、生きている?」
「おや、まだミラー様の意識はその辺りをうろついていらっしゃいましたか。
整合性は随分取れたと思うのですが……まあ、食事がてらお話ししようではありませんか。
今の私は我が主に完璧に忠実な、書類仕事を請け負わされる為に産み出された分体のようなものですよ」
なんだ? なんだ、この、不信感と不安感しか煽り立てない言い草は!?
「ミラーもダラルロートもさっさとお食べ。鏡はまだ怒っている。
炒め御飯の餡がまだ熱々だね。食べ始めないならお鍋に頭から叩き込んでやるぞ。
二人とも綺麗なお顔を餡かけにされたくはあるまい? ああん?」
「わかった、わかったから。頂こう」
鏡が激怒している事だけは解った俺は厚いステーキにナイフを入れ、餡を掛け回された炒め御飯を匙で掬いと取り急ぎ夕食の攻略に取り掛かった。副菜もやたらと多い。鏡はこれほど多くの皿を夕食に出す性格だったか?
「なあ、ダラルロートよ」
「ええ、言いたい事は解りますがまずは二人掛かりで鏡殿を宥めましょう」
「……そうよな」
殺気立つ鏡を横目に匙と箸とナイフを使い分ける。おかしい、俺は何故夕食をこんな緊迫感の下で摂っているのだ? 俺は確か、ダラルロートを全力で攻撃したのでは……?
「いや、よく観察していらっしゃる。
鏡殿ほど飲み込みの早い料理人であればミーセオの宮廷で料理長になるまで三年で充分でしょう」
「鏡じゃ調理技術の向上に専念しても調理100まで三年も掛かるって言いたいの?
喧嘩売ってるよね、ダラルロート。次にミラーを怒らせたらバラして煮込んでやるからね? せいぜい美味しく料理してあげる」
ダラルロートが料理を褒めようとしたようだが、その言い方では駄目だ……。
俺が宥めるしかないと決意して口を開く。
「なあ鏡よ、今晩の夕食は俺の知らぬ素材が多い気がするのだが……」
「ああ、ダラルロートに持って来させたからね。おいしいですかまずいですか」
「美味い」
鏡の切っ先が俺に向く。何だ、この殺気は。
「どのくらい?」
「暫く記憶に残るであろうくらいには。一ヶ月も空けずに次を頂きたいものだがな」
「ほう。そうかい」
嘘だ、完全な嘘ではないがこの場で吐く台詞としては嘘だ。おそらくこの炒め御飯は俺の記憶に一ヶ月と言わず一生、傷跡めいて残る。忘れられる気がしない。鏡は切っ先をダラルロートへ向ける。ダラルロートは鏡とある程度は話したのだろう、まだ俺よりは余裕がある。
「ダラルロートめ……煮ても焼いても食えないとはこの男の為にある形容句だよ……」
「褒め言葉にしか聞こえませんねえ、ははは。
ステーキの火加減は落第ですが、人参と大根の鱠は大変お上手ですよ鏡殿」
一体どれだけ神経が太いのだ、こいつは。
そう思って視てみれば、ダラルロートの中身はおかしい。肉体はある。脳らしきものも、いかにも太い血管と神経の束も。だが、どの臓器も何やらおかしいぞ。蛮族のものではない?
目を転じる。鏡の剣の、鏡の刀身に。鏡に映る俺の瞳は青ではない。黒だ。母の色だった青から、眼前の胡散臭さと偽りの権化めいた長く黒い長髪の男と同じ色の黒に転じてしまっている。
「茶は私が淹れましょうか?」
「いらん、お家では鏡がやるの。
鏡の聖域を穢したら本当に因子の断片すら残さず殺す。
お客が給仕を差し置いて動くんじゃありません」
「ははは、失礼致しました」
鏡の怒り方が本当に尋常ではない。
「一体何がどうなって」
「貴様が鏡を置いて行ったからだ、このお馬鹿、筋肉達磨、瞬間湯沸し器めが!!!!!!」
聞いた事のないような鏡の大音声が家を揺らし、有り合わせで補修されていた壁がずるりとずり落ちた。




