348. 名を喪った聖騎士レダ
怒鳴り散らしていた母の方がよっぽど人間的だった。
今や一匹の狸の雌を前にして、不気味なほど静かだ。
姿形はほぼ狸そのままなんだが、プラウネシアンと言う人種だ。だから一人の女を前にして、と表現した方が正しい。
「おじゃまして よろしいですか」
「おいでませのこ。サイ大師と緑皮教を介して、四精教から伝えたい事があると伺っているのこよ」
つつつ、とミーセオ風の祭祀服を身に着けた直立歩行する狸が入室して来る。本来プラウネシアンは前足を地面に突き四足で走る種族だが、小柄なりにミーセオの礼法に沿った所作を見せている。
井戸の権能に護られている以上、俺と妻が発する神威に打ちのめされて何も喋れないなどと言う事はあるまい。コルピティオが闘気や瘴気を発しても届かないだろう。
「春の精霊殿の祭祀長クルリア が つつしんで もうしあげます」
「女神は こたび の ぎ を うれいておられます」
俺はそっと膝を崩した。正座させられても疲れる訳ではないが、使者を迎えるのに正座は相応しくあるまい。
鑑定は済ませた。クルリアと名乗ったプラウネシアンはレベル12。不老の異能は持っていない。名乗りからすればモシミサニに仕える司祭程度のものであって、下級使徒でさえない。サイ大師に護られていなければ、俺を直視する事さえ憚られるだろう。
「かつて聖騎士だった あなた の たましい は すくわれるべきもの」
けれど、とクルリアは言う。母に向けて。
「あらそい に まきこむこと を 女神は おのぞみでは ありません」
「モシミサニに配慮して頂いたようで有り難いと思うぞ」
妻と春の大神モシミサニの関係は決して悪いものではない。
秋の大神オーシが冬の大神ムアドンと夏の大神イクタス・バーナバを争わせようと画策したのを察知し、こうして密告者を寄越してくれた訳だ。……それだけでは、ないようだが。
「俺は暗黒騎士ミラーソード。イクタス・バーナバの遣使だ。
アディケオの第三使徒は当面辞めるつもりがない。俺の立場を踏まえた上で伝言なり助言をくれるか、クルリアとやら」
名乗られた名前で呼んだのだがな。
クルリアは何やら哀しげな目をして俺を見返した。俺の左手に座す母は黙り込み、右手に座るマーザは何も言う気がないようだ。
「はい。ひみつ が あります。
黄眼教には秘宝があります。
黒舌教にはありません。秋の大神の試練には秘宝が ひつようです」
ゆっくりと喋るクルリアから俺とマーザが聞き出したのは、季節四柱の全てから祝福された黄眼教の秘宝についてだった。秘宝は大皿の形をしていて、季節の四柱から祝福されている為にオーシの一存では破壊する事ができない。オーシには壊せない大皿で供される供物であれば、オーシは厳しいものの出来栄えを採点はする。
「俺達には秋の大神に祝福された皿がある。不十分だと言うのだな?」
「はい。モシミサニ、イクタス・バーナバ、オーシ、ムアドンの四柱からの祝福を そろえるべきです。さもなくば秋の大神は なんくせ を いい、おさら を わってしまうでしょう」
「大人気ねえな、オムライスおじさん」
つまりだ。父がどんなに熱心に供物を研究しても、祝福された皿と言う競技に参加する前提条件を満たさないまま争えば黒舌は黄眼に負けちまうんだ。意地の悪い出題だとは思う。
「おむらいす……?」
「オーシがオムライスだったんだよ」
「ミラーソード様は夢で啓示を受けたのこよ。
……ものすごくファンタジーな啓示だったのこが」
「ははあ」
不思議そうに単語を口にしたクルリアに俺は端的に答えたはずだが、マーザが補足を入れた。母は直視したくないのか目を瞑り、眉間に皺を寄せている。……すげえ機嫌が悪いぞ。早めに切り上げるか。
夏はいいんだ。妻が直に吹き込めばよい。春も問題はない。
「春の大神の祝福は確保できる。
第三使徒オプサリオンがいるし、女王がモシミサニの宝珠を預かっている」
妻はモシミサニと仲がいいから、第三使徒を共有しているんだ。陰銀の部族の長でもあるオプサリオンは、プラウネシアの首都セマギとエムブレポの夏の都を頻繁に往復している。女王ファエドラの持ち物には友誼の恩寵を秘めた宝珠もある。
「問題はムアドンだ。あやつの祝福を得るのは少々骨であろう」
妻が俺の口を使えば、小柄なプラウネシアンはいよいよ畳に身体を擦り付けんばかりに平伏した。
「じゅんじょ が もんだいです」
「祭祀長の言う通りだ。オーシめ……」
秋の大神オーシと冬の大神ムアドンは非常に仲が悪い。オーシが祝福した皿に対し、ムアドンは容易には祝福を与えないだろうと言う話だ。
しかも正しく祝福を受けて秘宝を作るには順序に従わねばならない。一番最初に秋が祝福した皿であれば、次は冬に祝福して貰わなくてはならない。その次に春が来て、最後に妻が夏の祝福を与える事で完全な四季の秘宝が完成する。例えば冬を飛ばして春か夏の祝福を与えられた場合、決して四季の秘宝にはならんのだそうだ。
「ふつう は モシミサニが さいしょ に しゅくふくします」
「モシミサニの頼みをイクタス・バーナバは断らないのこ。
オーシはモシミサニにいい顔をしようとして引き受けるのこね。
残ったムアドンは一柱だけハブられるのが嫌で祝福するのこよ」
なんつう嫌がらせだ、オムライスおじさんめ!
わざと試練の難易度を引き上げていやがるだろう?
「じゅんじょ が ほんとう に もんだいなのです。
イクタス・バーナバが試練に やぶれたとき オーシはムアドンへの せんせんふこく を ねがいましょう」
「そうだよなあ、試練に失敗したら宣戦布告依頼が来るよなあ」
そうなるとよ、四季の秘宝を完成させた上で敗北した場合の方が傷は深くなる。
ムアドンからすれば「イクタス・バーナバが祝福してくれと言うから祝福したら、勝負に負けて宣戦布告をカマして来た」と言う事態になる訳だ。俺なら怒る、絶対に許さない。
「サイ大師は俺に負けるなと言った」
「モシミサニは四季の秘宝を かんせいさせたイクタス・バーナバが勝利すること を おのぞみです」
モシミサニとしてはイクタス・バーナバを助けてくれようとしている、と理解してもよかろう。解らんのはアディケオだ。
「アディケオは何を考えてオーシの頼みを聞いたんだ?」
「おそらくは未返済の貸し借りがあったのではないのこ?
廃嫡されし天子オーシはアディケオにおカネを貸していて、返してくれないからって契印を禅譲させようと争った神格のこよ。結局、国外追放と引き換えに契印と信奉をせしめて昇神を果たしたのこ」
「……借金のカタで昇神したってのか……?」
俺の信仰神が存外だらしねえぞ、おい。
第三使徒としては聞くべきではなかった話のような気がする。
「もうひとつ たいせつ な おしらせ が あります」
「言え、クルリア。知ってはいるが」
聞き慣れた淡々とした声に陽炎めいた殺意を滾らせて母が言った。
「言え」
「はい、レダ。試練のしんぱんやく は ノモスケファーラです」
どうしよう。
俺達の勝利する可能性が随分と小さくなってねえ?
「スカンダロンは味方のこ。
今回の彼はどんな悪辣な踏み倒しと詐欺も辞さない覚悟のこよ」
「それを聞いても安心できねえぞ。よりによってノモスケファーラとは……」
正善神が審判役となれば、俺にはどう考えても不利であろう。
「♪アンタ~ラギ☆ もお味方するのこよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「真面目に勝たないとならねえって解ってるよなあ、マーザ?」
歌うように言うマーザには真剣味が足りぬように感じて俺が問い詰める横で、母は凍り付いたような眼で狸を睥睨していた。
「私はコルピティオだ。レダなどと知らぬ名で呼ぶな」
「あなた は な を うしなった聖騎士そのひとです」
恐れてはいるが、母を見上げるのは白い毛皮で縁取られた澄んだ瞳だった。
母が違うって言うんだから、レダってのは母の名前じゃねえんだろ? ……そうだよな。俺にはまるで身に覚えのない名前だ。そもそも母の真名は祖母によって剥奪されていて、もっと長いと知っている。
「たとえ いのり が とどかずとも」
クルリアが懐から紗に包まれた箱のようなものを取り出し、畳の上に置いて紐解いた。真っ白な神力の結晶めいた箱だ。
「せめて あなた が こころ やすらかに あれますように」
俺は同等の白さを目にした事がある。
地獄へ降りて母の天幕を訪ねた時と、父が母に追い詰められた時だ。
「コルピティオ殿にとっては玉手箱のこね。
無限の善意に打ち勝てると思うなら開けたらいいのこ」
俺は生まれて初めて母が逃げ出す後ろ姿を見た。
皇居の襖を蹴り倒し、物凄い勢いで走り去る姿を見ても何が起こったのか理解できなかった。
「……何なんだよ、そのいかにも物騒な箱は!」
「道具は道具のこよ~。悪属性のままでも使えない事はないのこ」
余裕ぶるマーザと、母が悲鳴を上げて逃げ出す原因になった箱を交互に見た。
差し出した狸は井戸の権能に護られていて、俺が手を出したならおそらくは攻撃と同等以上の凄まじい反撃が来ると知ってはいた。父ならば、そうと知っていても殺しに掛かっただろうか。
「ミラーでもいいのこが。
開けたらレダとして愛されていた人物が持っていた力を取り戻すのこよ?」
「貴様は何を知っている、アンタラギ!」
俺の口からも悲鳴が漏れた。
妻の制止も肉体が受け付けてくれない。幽霊恐怖症の発作が起きているだと? 何でだよ!? お化けなんてどこにも―――
「怖いのこよねえ。だってこれは聖騎士レダの幽霊のこ。
聖騎士として生きた彼がコラプション スライムに復讐しに来たのこよ」
俺は聖騎士レダなんて知らないぞ! 誰だよ!
だけど俺は全身をぶるぶる震わせて後ずさる事しかできなくて、アンタケの星辰道士は軽快な足取りで箱を持って迫って来る。
「今回は仕方がないのこよ」
今回『は』!? 『は』って何だよ!
どうして妻と偏愛の司直が助けに入れないんだ!? 皇居はスカンダロンの聖域だろう!
「ノモスケファーラの機嫌を取る間、ミラーかコルピティオ殿には聖騎士に戻って貰うのこ。イクタス・バーナバよ、どっちがいいのこかあ? スカンダロンとアンタラギはどっちでもいいのこよう?」
俺は脅された妻が何と答えたのか認識できないまま、意識を失った。




