333. カルポス水精宮
俺達は郎党と軍勢を引き連れて、プロバトン側の国境都市だったカルポスの跡地に来ている。もはや先進的な都市が存在した面影は何一つねえけどな。
エムブレポの版図内に夏の都以外の固定された拠点はない。
絶えず移動し続ける六部族には気に入りの宿営地があるにしても、村落や市街地は全くない。夏の都から出れば、版図の大半が常夏の熱気に満たされて突発的な豪雨に煙る密林の中に沈んでいる。しかし必要と認めたならば、イクタス・バーナバは黙って座してなどいないのだ。
俺ってスライムだし、妻を介して魚としての性根も具わっている。水辺にいると泳ぎたくなって浮き足立つよ。魔素をたっぷりと含む水場ならば尚更だ。
まだ造成されて間もない真新しい湖ゆえ生命の気配は濃くないが、きちんと管理して維持すればさぞ豊かな湖になるだろう。何しろ精霊神が精霊を召集して造り上げたからには、尋常な湖ではない。
「妻は拠点を持ちたがらないが、国境付近に前線拠点を設けた方が進軍は楽だわな」
「魔力総量の少ない術師にとっては安全な転移中継点の有無は重要です。
飛魚の群れの寝床となるこの地、カルポス水精宮については守備が必要でしょうねえ」
ダラルロートの視線の先を見上げれば、ピーちゃんに乗ったエファとデオマイアが湖上の遊覧飛行を楽しんでいる。
契約者が版図に親しむ事は土着神にとって好ましい行為だ。契印の契約者が現地を訪問すれば、土着神は版図に神力を行き渡らせ易くなるんだよ。ミーセオ皇帝が家臣の領地を行幸すると収穫が増えて衆生に有り難がられるが、アディケオの利にもなっているのさ。
カルポス跡には先遣隊を夏の都で休ませている間に造成された水精宮が出来上がっていて、リンミ湖の三分の一ほどの広さの湖と化している。
建設を発案したのも実行したのも妻だ。プロバトン空軍への対抗策として、エムブレポにも空軍が要ると判断した。妻曰く夏の都の地底湖から転移門で陽銀の飛魚騎兵を現地へ送るだけではなく、国境付近の空を哨戒する戦力を常に置かないと不味そうなんだと。カルポス水精宮は対プロバトンの前線基地だ。
どうやって造ったのかと思えば、戦術級大地精を使役して造成した土地に大勢の水精を召集したそうだ。集められた水精が精霊宮を形成するのに十分な魔力を与え、この地に定着するよう命じたんだ。飛魚の群れにとって心地よい塒にしようとした結果、湖と呼ぶべき広さになったと聞かされた。
いいよな、精霊術に通じているなら派手な水遊びが思いのままだ。精霊術と死霊術の二系統だけはどうあっても扱えない俺には、精霊を自在に使役する妻が偉大な神格に思えてならない。愛しているよと囁けば、妻も俺の頬を撫でるような感触を返してくれる。
「ハァ、いいですね。お水って、ある所には豊富にあるんですよね」
「財力と水は似ている。持つ者がより多くを集め易い」
湖畔の樹木を止り木にするシフィカの羽音に紛れて、トレイスと母の声がする。
トレイス以外の九匹のシフィカについては、春からリンミで働いている者達だ。リンミからカルポスに出張させ、プロバトン本土へ乗り込む顔触れだ。
「水精を集めたら立派な湖ができるだなんて反則もいい所じゃないですか」
「イクちゃんはまだしも良心的じゃないの?
煉獄から揚水して、煉獄へ排水するスカンダロンの方が酷いと思うよ」
トレイスのぼやきに父が異論を唱えている。
確かにスカンダロンは相当量の水を抱えているはずだ。魂の洗い場である赤の崩落はあの大きさだ、凄まじい総量の水が循環しているはずだ。現世の全ての井戸は地下水ではなく煉獄の水を汲み上げている、と告げられても信じそうだ。
「報償の水量は働き次第だと解っていような、ピーノー伯」
「御心配なく。私の指揮下に入ったシフィカは一兵残らず精鋭同然ですよ」
神降ろしの疲弊から回復したトレイスは幾つか要望を出して来てさ。
トレイスの指揮下に入って行動するシフィカをくれ、と言うからリンミで飼っているシフィカを連れて来た。俺としては脚の速い伝令として使い続けたかったんだが、母が提供に同意しちまったんだよ。
使徒か神格の指揮下に入ったシフィカは自我を持たないかのように上位者の指示を受け入れる兵士と化すそうだが、無事に帰って来てくれるかね? 約一名、そなたらの無事を真摯に祈っている一等市民がリンミにいるぞ。
「この子達を前線へ連れて行くって言ったら、ワバちゃんが死にそうな顔してたよね」
「領地の運営を異能に依存する危険性は説いたのですがねえ」
誰って、ワバルロートなんだけどさ。
ワバルロートにとってシフィカ伝令は手放し難い人員らしい。命令に対して口答えするような愚か者ではないが、動揺は透けて見えた。
「国外へ出されるシフィカは珍しいのですよ。
リンミニアに忠実だったでしょう、彼ら内偵要員は」
「勤務態度に問題は見受けられないと報告されておりましたな」
トレイスの複眼と魔力回路に縁取られたダラルロートの目付きは、どう見たって友好的な雰囲気じゃあない。
「エファとゼナイダが揃って問題はないと言いましてねえ」
「ティリンス侯を擁するリンミニアを相手に下手は打てませんよ。
弛まざる大公はアガソスの国家機密に通じていますが、機密の保持となると甘くていけない」
素人なんですよとトレイスが蔑むように言えば、母とダラルロートがトレイスへ向ける眼差しが僅かばかり色合いを変えた。『善にしてはマシな手合いだ』とか『こやつは堕落する可能性がない事もない』とでも翻訳できる視線だろうか。
「ニュムフィオスはどこまでなら知っているのだ?」
「我が神は全てと思い込んでおられますが、私の見る所真実のせいぜい半分です」
「マーザもそのくらいだと思うのこよ」
ゼナイダが問えばトレイスが答え、湖畔に茣蓙を敷き竹筒を加工した弁当箱に米の粥を詰めたものを匙で食べていたマーザが同意した。エピスタタについての半分、なあ。アレだろ、神格と対峙するに至った勇者は無謬にして果断であり―――そこから先の思考は妻に阻まれた。
俺の思考を拭い落とそうとする力に抗わず、暫くの間妻の手で意識が漂白されるに任せた。知らなくていい事なら構わないさ。禁忌として葬り去りたいのだろう? 俺は頭がよろしくないかもしれんが、鏡師としての俺は少しばかり神秘に通じてはいような。
「ミラー様」
「ミラーもお粥を食べたいのこ?」
「涎を垂らすくらいはらぺこならご飯を作ってあげるよ、ミラー」
父に涎と言われてようやく、口から垂れていた液体に気付いた。
見咎めたダラルロートが布切れで拭い取ってくれた瞬くほどの間に、よく磨かれた木材で仕上げられた椅子と食卓、食卓を覆う清潔そうな布、父好みの茶器、細々とした食器、花瓶に生けられた花が父によって創造された。後は着席して食いたいものを口にすれば、父が応えてくれるであろう万全の佇まいだ。
「ミラー達はゆっくり観覧して欲しいのだ。
ゼナイダはプトーコスを突いてみる」
「行け、ゼナイダ。イクタス・バーナバの終わりなき夏の祝福は汝と共に在る」
やる事は他国の侵略なんだがね。あくまでも自然体で出撃を宣言したゼナイダに、妻が神威を伴う言祝ぎを与えた。
カルポスで思い思いに待機していた陽銀、陰銀、虎牙、虎爪の者どもが直ちに女神の下命に応えるように吼え、叫ぶ。召喚術に通じる陰銀の術師らは転移門を開放すべく詠唱を始め、飛魚は乗り手に呼ばれて湖から上がって来る。
「敵がシフィカならすぐにでも始末して差し上げますよ。
お約束の件、よろしくお願いしますね?」
「偉大なる邪神の神子は交わした契約を軽んじはしない」
カネに煩い用心棒めかして言うトレイスに応えた母の言葉は、俺にとって少しばかり胸の痛む台詞だった。プロバトンを相手にゼナイダが十分な功績を挙げたなら、今この場にいないアステールの意志を強引にでも折らないといかんかもしれんなあ。




