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暗黒騎士と鏡の剣  作者: 十奏七音
夏の都のミラーソード II
308/502

306. 聖触宮

 大河の大神の御座所、聖触宮は生きている。

 大神の御世において、聖触宮とは城砦の権能を司る女神が現世に降臨する器そのものだった。契印を禅譲して神位を退いた後も聖触宮は生き続けている。


「ミラー、怖がらないで欲しいのこ」

「恐れてはいない。畏れてはいるがね」


 朝食を交換の異能で精霊宮へ取り寄せてもいいとは言いつつ、折角なら聖触宮で食べるようマーザに勧められてさ。美味過ぎて泣かされるなら一番美味いものを喰ってやろうと意気込み、聖触宮の入口まで虫輿で運ばれて来た。……そのはずだ。

 見上げているのは、竜でも平然と丸呑みにしそうな巨大な蛇めいた頭の開口部だ。

 生臭さはない。生物を超越した神気に満ちている。少し離れた所から見れば、白く輝く人型生物の脳か、絡まり合う触手の塊めいたものが鎮座していた。


 生きた触手塊の姿はスライムとしての本能に訴え掛けて来るものがあってな。美人なんだよ。初恋の女性は小さく愛らしかったが、聖触宮は爛熟した色香を漂わせる美女だ。


「こんな絶世の美女の体内で落ち着いて食事をできる気はせんぞ」

「菌類のアンタケから控え目に申し上げるとしても、建物への欲情はどうかと思うのこ」

「建物と言っても生きた血肉であろう? 増殖の権能を司る大母に縋るならば、どんな生命とでも繁殖できる」


 どことなく雰囲気を硬くしたマーザが細くて指のない手を一本、傘の内側に当てて擦るような仕草をした。引き出されたのは茸の菌糸だ。強い粘性を示す茸の菌糸を六本ある短い手で弄び、輝くような三本の糸を形成した時点で占いは終わった。くるりと巻き取られた菌糸塊は小袖の懐へ消えた。


「ミラーは一片の混じりっけもなしの本気のこね」

「美女を口説くのに理由は要るまいよ。茸のそなたとて、より良い苗床に菌を植え付けたいとは思うのだろ」

「もちろん、繁殖の欲求はあるのこが……。

 ミラーは会談まで抑えられるのこ? それとも発散しないといけないのこ、イクタス・バーナバ?」


 目と鼻を持たず、顔の造作は口しかない茸であっても声音の変化が幅広い。イクタス・バーナバとティコスの会談に漕ぎ着ける為であれば、マーザは助力してくれそうな様子ではある。

 祖母と妻とアディケオの敵視を受けていないマーザを脅す気はないが、俺達も会談の前に用意したいものがあるんだ。


「我が夫が求めるものを与えよ」

「発散するから朝食を多目にくれ。肉が要る」

「お任せあれのこ。聖触宮よ、氾濫の間へ御案内のこ~」


 俺の食欲と性欲が声を揃えて喚いている。早く美女の中に触手を(うず)めてしまえ、眼前の御馳走を喰わせろと。俺を引き摺り込むようにして内部へ案内してくれた柔らかく優しげな触手に巻き取られる間でさえ、宮殿として機能する巨大生命体は食いでがありそうに思えてならなかった。

 管めいて細い聖触宮の内壁へ注意を向ければ、妊娠していない牝牛の匂いを嗅ぎ取れた。俺の子を孕ませられる! 気付いてしまえば最早抑え難く、擬態した人の身の内で黒い血が煮え滾った。牝牛の血肉を喰らい、皮を被って成り代わるのでもいいぞ。俺自身を突き立てて植え込んでやるんだ、それがいい。


 触手に口付けた俺はスライムとしての本能を抑える事など考えちゃいなかった―――妻の口に咥えられ、猛りの一切を食われるまでは。


「ミラーソード。聖触宮は南方の神々の母体だ。

 そのように(よこしま)な心根で母に心惹かれるのなら、少なくともティコスとアンタラギを打ち倒さなくては叶わぬ願いだ」

「……解ったけど、義母は美し過ぎる」


 半身でもある妻が俺の飢えを満たし、義母を前にして燃え上がった欲望を受け止めてくれたんだ。思考が巡るようになった脳に思案を載せてやる。狂ったままに犯したかった、と残念に思う気持ちを隠せる程度には正気付いたよ。


 そうさな。妻が正面から殴れば御自慢の壁を砕けそうなティコスはともかく、アンタラギとは事を構えたくない。得体の知れない不気味さを感じるんだよ。後方を探査すれば、俺と同じように触手に包み込まれて運ばれているマーザが視える。慣れた様子のアンタケは寛いでさえいるように見える。

 だってよ、第二使徒のマーザがレベル22だぞ。俺が腐敗し果てた母の亡骸を糧として芽生えた時、レベル22だった。四権能の神格に祝福された神子(みこ)と互角なんだぞ? 恩寵を授けている神々の多さも気になる。見知らぬ第一使徒とアンタラギ自身はどの程度強いのか読めねえよ。


 母―――カーリタースとコルピティオと名乗っている存在が俺に受け継がせてくれた常識として。今生を得た現世に生きる定命の者であれば、レベル20に辿り着いたらよりよい来世に期待できると言われている。死後、今いる世界よりも高次の世界に生を受けられるかもしれないんだ。カーリタースが祖母の干渉を受けて偏愛の司直へと作り変えられたように、神の側近として取り立てられる魂もある。鏡師としての俺は、発生して間もない低次の世界へ神として赴いた魂も知っている。


 淡い光を供給された肉の壁の内側を運ばれる間、俺を捕まえている触手を撫でると気が安らいだ。

 こうして直に触れてみた感触からすれば、大河の大神は高次の世界から降りて来た神であろう。低次の世界に滞る魂をより高次の世界へ導こうとして降り来たった善き魂。氾濫、絶縁、変化、多頭、城砦、暦運の六権を司っていた女神の神格属性は狂える善だ。もし六権能のまま健在だったなら、北に在って規律、支配、剛力、大地、賢察の五権を司る正しき善の女神ノモスケファーラと陸塊を二分して治めていたのかもしれない。

 大河の大神が持っていた六権は攻めには向かなそうな代わり、自在に変化する氾濫源に護られた城砦を足場にした護りに長じた神格であろうと伺える。敵国への武力侵攻を躊躇しないノモスケファーラと戦うだけの力はあった事だろう。絶縁の権能が国境線をこの上なく明確に通告し、内政は歴運の権能が見通しをよくしてくれる。


 義母の弱点となったのは多頭の権能だと値踏みしている。頭が多ければ目と口の数も増える。妻は二つの頭で見解を異にする事はあっても、一つの器を合同して護ろうとする。義母の多頭の権能は、子である神族らの異論を纏めさせる事ができなかった。妻が司っている双頭の権能は多頭の権能の下位権能、或いは欠点を改善した権能だと看做せる。


 ともあれ強大な善神同士であれば、ノモスケファーラであっても侵攻を手控え、陸塊一つを統一しようとするよりも手打ちを選んだのではないかな。天界と聖界にも正と狂の性質の違いから争いがない訳ではないが、善神同士の場合は対等な条件下での団体競技や代表者同士による一騎打ちで雌雄を決すると聞き知っている。

 自身が根城とする世界だけでは闘争の決着を望めない時、神々はより低次の世界を遊戯盤に見立てて覇権を競う事もある。干渉される低次の側からすれば迷惑な話さ。

 神君と謳われた名君ノモスが昇神したと言うバシレイアの建国神話を信じるなら、規律神ノモスケファーラは定命の者からの叩き上げだ。真の意味での土着神は、本能的に異界からの干渉を好みはすまい。天界の使者から贈り物を下げ渡された時、あくまでも対等な権威者として振舞っていた神君ノモスの姿をかつて第一使徒だった母が覚えている。



「ミラー、聞いているのこ? 卓に触れて何が美味しいか感想を聞かせてくれたら、より好みに合いそうなものが選ばれて運ばれるのこよ」

「……ああ、気が遠くなるほど美味いんだ。俺はこちらの皿を頂くよ」


 気が付けば、着座して匙を手にした俺にマーザが話し掛けて来ていた。皿の中で緩やかに渦巻いている物質は属性力と魔素に実体を与えられたスープだと思うのだが、一匙ですっかり悦に入ってしまっていた。


 氾濫の間と呼ばれている会見場は巨人や竜の来客でも収容できそうなまでに広く、様々な大きさの卓がある。俺が腰を下ろしている椅子がある卓は比較的小さなものだ。氾濫の権能と変化の権能によって創造されるか召喚されたらしき美食と富が溢れ返っている。卓と卓の間の床には何やら曲がりくねった線が引かれていて、他の卓の匂いや光はこちらへ届かないものらしい。妻曰く、絶縁の権能によって卓毎に保護されているのだそうだ。


「この部屋は宝物庫のようにも見えるが、雰囲気からすると宴会場なのか?」

「金属や宝石も含めての御馳走のこよ。大河の大神は色んな種族との間に子を成したのこ。生まれた御子は肉や野菜を欲しがる種族ばかりではないのこね」


 この皿は何の料理かとマーザに訊いたら、万色の大海風 暗黒物質の渾沌和え まろやか仕立ての千年仕込みだそうだ。もう一生これだけでいいよ、俺。鍋でくれたら鏡師の離宮に引き篭もる。少しずつ舐めながら暮らす以上によりよい生き方を思い描けない。


「偏食はもったいないのこよ。他の料理がもっとミラーの好みだったらどうするのこ? 聖触宮は滅多に開放しないのこ。味わう機会を逃がすのは損ではないのこ?」

「……ふむ。そなたの言も正しいように思う」


 小鳥に給仕する母鳥めいた声音を発したマーザの説教を聞き入れ、俺は他の料理にも手を伸ばした。凍り付いているようでいて眩く輝く極彩色のケーキのようなもの、嗅いだ事のない芳しい肉の香りがするゼリー状の煮凝り、処女雪のように白くありながら年経た強者の命めいた滋味を含む米のようなもの。

 ティコスの遣いが氾濫の間にやって来るまでの間、俺は大いに悩んだ。何を口にしても放心気味だった。これほど美味い料理が存在していいのか。俺はこの空間に存在を許されていいのかと。


 食が進むにつれて俺はいつしか人の擬態を打ち捨て、すっかり肥大化したスライムの本性を現していた。卓と椅子は俺の体躯に合わせて大きくなり、卓と卓を隔てている線引きも変化していたようだ。

 見知らぬ美食の皿を口にする度にこれはなんだ、どうして美味いんだと俺は悩んでばかりだった。妻も待ち時間を悠然と過ごし、母の宮廷の味を懐かしむ様子があった。変化を司るが故に「不変であれ」と命じる事もできた大神の威光に俺は存分に浴したよ。


「ミラー、卓に着いた客人筆頭として他の訪問客が立ち入る許しを与えて欲しいのこ」

「入られよ」


 マーザの声に俺の一部が即座に応え、客の来訪を許した。卓を預けられた客人筆頭と、その卓を訪れる他の訪問客。それが大河の大神の腹の中で俺達に与えられた身分だ。


「イクタス・バーナバの夫、アディケオの第三使徒 暗黒騎士ミラーソードから御挨拶を申し上げる。二柱とも、初めてお目に掛かる」

「イクタス・バーナバからも挨拶するとしよう。お久しゅう、ティコス兄上」


 嫁の兄だと思えば、頭くらいは下げてやってもいいと考えていた。

 お化け退治に熱心な退魔術の神だと思えば、敬ってやろうとも考えていた。

 ……なのにどうしてレベル24しかねえんだ。こやつが定命の者でティコスの第一使徒ピストーティタであったなら、レベル24もあったら充分に強いと褒めてやっている。なんだってティコスとして神性を発する器がレベル24でしかねえの?


「無作法な挨拶はアディケオの流儀か、ミラーソードとやら」


 ティコスは妹には言葉を返さなかった。俺が網めいて無数に投じた鑑定の多重(マルチ)多段(ステア)詠唱(キャスト)に対して、喋る黄金色の多面結晶体が文句を言って来た。研磨の技法には見るべきものがあり、宝石としてはよく輝いている。多頭の権能を受け継げなかった神格が、せめて多面であろうとする努力として買うべきなのか? だけどこんなに壊れ易そうな器で話になるのかよ。


「いやさ、兄上は小奇麗な器を用いておられると心惹かれたまで」


 問題は人型をした結晶生命体の後ろに付いて来た茸だ。マーザよりもずっと図体が大きく、スライムとして肥大化した俺の半分くらいの背丈がある。人に擬態した状態の俺からすれば背丈二つ分以上大きいだろう。


「それとも俺はアンタラギと話すべきであろうか」

「アンタラギも息災と見える」

「アンタラギはお供のこ。イクタス・バーナバとミラーソードには、どうか盟主ティコスとお話しして欲しいのこ」


 アンタラギは底が知れない。俺はアンタラギの分霊と思しき明るい桃色の大茸にもティコスと同数の鑑定を投じた。けれど術は対象をティコスへと勝手に変更された。心の内で妻に問えば、交換の権能で術の対象を交換だか入替されたと理解していいらしい。


「そうかい。俺の耳にはマーザと声が違わないように聞こえるが……」

「個体差はあるのこよ、ミラーソード。アンタケではない御仁には聞き分け辛い違いがあるのこ。菌株から分かたれたアンタケはアンタラギによく似るのこ~」


 じっと見ていたが、紫色の小さな茸は脇に控えたまま一言も喋っていない。ミラーと呼び掛けて来たらマーザ、ミラーソードと呼び掛けて来たらアンタラギか? 声は本当によく似ている。

 アンタラギが発する神威は尋常じゃねえ。桃色の茸の傘を注視する。力強い分霊として現世に存在する以上、鑑定が通らずとも拝めば本質を感じる事はできる。アンタラギは交換の権能のみを持つ一権能の神格だと聞いていたが、触れられるほどに近付けば恐ろしい数の神々から多種多様な恩寵を授かっていると感じ取れる。只者では有り得ない。たかが一権能と侮って噛み付いたら、無事では済まない可能性を予知できている。こやつは何者だ? ひょっとして俺は跪いて慈悲を乞わないとならないのか?


「そんなに緊張しないで欲しいのこ、ミラーソード。

 アンタラギは大神に仕える使徒だったのこ。心優しき主が神位を降りられた際、契印を授けて頂いた下僕に過ぎないのこよ」

「聖国の大番頭、とマーザがそなたの事を歌っていたな」

「お聞きになったのこ? うちの子はみんな歌が好きのこ。下手の横好きのこよ」


 アンタラギはマーザと同じく陽気で親しみ易い人格を前面に押し出して来たから、話すうちに自然と警戒を解いていた。妻は最初から敵愾心を抱いていなかったようだしな。夫として妻と歩調を合わせた方がいい。


「アンタラギ」

「この席で頑張れないなら遠からず聖国は滅びるのこ、盟主ティコス」


 不快げに俺とアンタラギの会話を咎める意思を表明した上司に対し、アンタラギは平然とそんな台詞を言い放った。……どちらが本当の上司だか怪しいもんだ。


「それほどフォティアに圧されているのか、兄上。

 旧都カーティズマ及び、アシメヒア北部の二桁及び三桁区分の戦区を全て譲ってくれるなら手を貸そう」


 この場を交渉の席として見た時、妻は初っ端から豪快に殴り掛かった。

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