272. 記憶の改竄
夕食後、食堂から煉獄へ赴く様子のない俺達に娘は察するものがあったようだ。小振りのスライムを膝の上に抱え、じっと俺を視ている。
「前置きと釈明は要らぬ。サイ大師からの手紙はダラルロートが読ませてくれた」
「そうか。皇居から送った菓子は口に合ったかね?」
「供するのは明日以降にすると言われてしまってな。
記憶の改竄を受ければ、今日 俺が経験した事は混濁して消えてしまうそうだ」
どんなに美味い物を口にしても記憶に残らないのでは意味がなかろう、とデオマイアは食後の淡い幸福感を微塵も感じさせない硬く低い声で言った。痛ましい娘を哀れむ妻の涙が豪雨を降らせ、屋根を叩く猛然たる雨音を聞く。
「ダラルロートよ、已む無しと考えるべきかね」
「施術の準備は整えております」
「そうか。妻よ、今回の操作も大君に委ねてよいか」
「リンミの大君にはイクタス・バーナバが祝福を与えよう」
間近に招き、跪いたダラルロートに妻からの祝福を与えてやった。目的を達成するまでの間、一時的に貸し与える類の力だ。妻の承認を受けて大君が娘に心術を施す後押しをする。
「……その様子では、俺が忘れるのは今日の出来事だけではないように思えるがね」
「負の影響は最小限に抑制致しますよ。地獄より帰還されてこの方、デオマイア様が払われた日々の努力を全くの無に帰す施術は致しません」
「そなたが言うならそうなのであろうさ。俺の施術の内容には関知せぬ」
教えられると改竄後の俺の邪魔になりかねん、と自身も心術に通じた娘は感情を抑制した声ばかり聞かせる。神域で嘆く妻の想いを共有し、娘が必要性を理解してくれている事だけは幸いだと慰めた。
俺に対しては疑わしげな目を向ける一方、大君には確固たる信頼を向けている様子には参るものがあるがね。娘が持つ考課表は第一印象の得点配分が極度に重く、失点の記録が長く残る性質を持つらしい。
「デミが保持すべき記憶に関しては、既にダラルロートと充分に話し合ってある。明日の朝には好ましい状態に整理されているだろう」
「うん、コーティ」
孫娘を案じるコルピティオに対しても素直なものだ。俺の半身が愛しい母を嫌うはずはないがね。可愛らしい声で応えたのが嘘だったかのように、一転して陰気な声で娘は言った。
「パイディオンと創造の司直への報復を諦める訳ではないが、息苦しいのも事実でな。今晩も美味い物を食べさせてくれているはずなのに、碌々印象さえ残らない」
「施術後にはそのような苦渋を感じさせない事を御約束致しましょう」
「ダラルロートならば可能であろう」
「可愛いデオマイアちゃんの為よ。ダラちゃんに任せれば上手に傷跡が隠れる」
父の声に対しては、娘は無視を決め込んだ。鏡の剣に封じられた者の声を聞こえるようにする術具は間違いなく携帯しているのだがね。娘による取り扱われ方の序列差を感じる。父よりは上である事に安堵する俺を許せ。下の方だとしても最下位では居た堪れねえんだ。
「よい、やれ。サイ大師は施術を受けるよう勧めてくれた。
何か俺に知らせたくない事情があるらしき書き方だったのだから、受けなくては話してくれまい?」
「「大切な愛娘を取るに足らぬ善神の肉の器になどさせぬ」」
立ち上がれば俺と妻の声が混ざり合った憤激が漏れ出し、館の外では大嵐めいた強風が吹き抜けたようだ。双頭の異能が一つの口から二つの意志で語らせる。
屋外に設置する遊具について、大君がやたらと頑丈に作り直させた理由は妻の権能であろうな。固定の甘い中空の鉄では容易に流されるか、吹き飛ばされかねない。軽い方が子供には扱い易いと父は反論していたが、統治者としての視点を持つダラルロートの方が正しかろうよ。
「未熟の小権能に毒されればデオマイアは成長できなくなる」
「レベル28など俺の限界には程遠い。まして、愛娘にとってはたかが開始地点に過ぎない」
「イクタス・バーナバが」
「俺が」
「「許すものか」」
専らサイ大師に教えられた事だがね。幼年の権能を司る一権能の善神パイディオンはレベル28でしかないそうだ。神格と定命の者には隔絶した差があるとは言え、レベルだけはデオマイアと同等だ。属性の一致、権能との親和性、信仰などの諸条件が揃うなら、神降ろしを負荷と思う事なく現世に降りた現人神として振舞える可能性さえあるそうだ。
もしパイディオンが悪神であったなら、禅譲を餌にして誑かすなり、お化け恐怖症と言う弱点を突くなりして、無理矢理にでも己の器としていたであろうと言われたよ。属性が善であり、幼子の守護神格だからこそ、やらなかったと言うよりはできなかったらしい。
「父と母の怒りのほどは充分に解ったゆえ、ちと抑えろ」
「今少し、神威を抑えて頂ければ幸いです。イクタス・バーナバの御怒りは我々が施した防護結界など容易く貫いてしまいます」
「……すまんな、気が昂った」
妻が発した神威を感じ取った信仰篤い者達はめいめいに祈り、或いは雨の中を歩いて聖火堂へ向かい始めているようだ。強過ぎる神威を浴びた館内の者にはひっくり返っちまっている者もいる。
「全く……。夕食なり、食後の茶を楽しんでいるであろう市民の邪魔をするものではないぞ。落ち着いて飯を食わせてくれない狂神なんて誰が信仰するんだ」
「その通りだ」
降参の体で両手を挙げ、俺は椅子に座り直した。夏の都だと日没前には煮炊き場の番人が家に帰っちまうからな。妻の判断基準はエムブレポの生活様式に根差していて、リンミの市民生活に配慮しているとは言えない。デオマイアが抱えている鬱屈した感情は、南方に在る狂える悪しき火神に目を付けられかねない程の怒りと恨みだ。そんな娘にさえ諭され、呆れられるようでは親として立つ瀬がないではないか。
「施術してくれ、ダラルロート」
「御望みのままに、デオマイア様」
大君が地獄での出来事についての記憶を改竄する処置を施してくれた後、眠り込んだ娘に朝まで寝室で添い寝していた。父は針仕事をしながら側にいてくれたし、母は不寝番めいて無言を通した。大君は深夜にも細かな修正を施し、傷付いた娘の精神を巧妙に繕ってくれた。偏愛の司直も娘を護る処置として肯定した。
根絶の火神フォティアからの注視を強めないよう、肉体の成長を見送った点については悩ましい判断だった。デオマイアが長じれば今よりも美しく、より魅力的な器と看做されるようにはなるのであろうが、愛娘が立て続けの苦難に見舞われる事を俺と妻は良しとしなかった。
送り付けた警告に反してパイディオンが再度の干渉を試みるならば、妻は狂神として神罰を下すそうだ。子供を食い殺す事を目的に徘徊する、双頭の神獣どもをエムブレポの外に解き放つ事になる。
結局は、厄介事の方から訪ねて来やがったのだがね。ままならぬ事よ。




