266. 再現性の問題
リンミニアで俺の決済を求められる書類は極々一部でしかない。大半はダラルロートの手で最終決済を済まされ、俺にまでは回って来ない。報告しろと厳命した事案についてのみ、早朝に大君の手ずから渡される。
『再現性なし』
娘と一緒に水薬の調合をしてから二日かな。リンミニアとして囲っている最高の錬金術師が寄越した報告書には再現性なしを示す×印が大きく描かれ、詳細な報告が記されていた。
『ミラーソード様が示された手順書に従った調合の結果、試作品同様の性質を有する成果物は再現しませんでした』
珍しい事ではない。むしろ材料さえ揃えれば再現したかもしれない、再現していると言えない事もない程度に格好の付く特別製疲労回復用水薬の手順書の方が例外だ。
「ダメだったか」
「手順書に示された通りに状態変化が進行しなかったと報告されておりますねえ。ミラー様は無意識に素材の性質を変異させましたか?」
「有効成分を抽出して凝縮する作業は錬金術師どもでも可能なんだが、有効成分の任意抽出が完璧にはできていないからなあ。何より構造の鎖が視えてねえから、性質の拡張と発展は俺しかできねえ。溶媒を変えるなりしねえとあやつらでは作成可能な薬品になりそうにないか」
俺以外の錬金術師にも作成可能になるまで手順の改良を試みるかどうかの目安となるよう、報告書には試行に要した素材の金銭的価値について具体的な金額で記されている。
大君の意見を示す欄には毛筆で『勧奨に値せず』と記されている。
大君代行ワバルロートの意見は『採算性に重大な疑義あり』で、魔女シャンディの意見は『新手の詐欺。デオマイア様の教育に悪いと思われます』とある。司教ヤン・グァンの意見は『激烈な需要過多が予測される為、臣は秘匿を推奨する』だそうだ。
朝議に出席する高官の意見を眺めると、騎士団長マオ・チォンだけ意見の毛色が違うのだな。『エムブレポ及びミーセオとの重要な交易品になり得る。重大かつ推進すべき研究』だそうだ。
改良を指示すると失敗作の量産と素材の浪費が続く事を思えば、試行一回で最近五倍にしたシャンディの年俸相当が吹き飛ぶ延命の水薬については見送るべきであろうな。浪費される素材は俺が変成術で拵えるんだぞ。俺よりも遥かに能力の低い錬金術師らの児戯めいた研究に浪費されるのは好ましくない。
「マオ・チォンが乗り気と言う事は、帝国には既に伝わったと見てよいな」
「ええ。手順書に従って作成可能なのは現状ではミラーソード様のみですが、原材料費の高騰は起こり得ます」
「投機だか仕手は常の如く大君に委ねる。完成品の希釈と流布についても許す」
「承りました」
改良研究の禁止を命じて書類を決済し、ダラルロートに対しては口頭で指示を出した。膝の上のデオマイアは認識欺瞞と化粧の色濃い大君の素顔でも覗こうとしているのか、俺に対してはさほど興味がなさそうだ。質問を投げ掛けては来るが、俺の答えが欲しいと言うよりは大君の反応を見たいのだろう。
「どうして高度な薬品はミラーソードにしか作れないんだ?」
「物質への理解が錬金術師どもには及んでおらんのだよ。俺は調合の必要に応じて構造の鎖を自由に架け替えるなり、継ぎ足すなりして欲しい素材を創造する。錬金術師どもには物質の本質たる構造の鎖が視えてはいない。この差がまず一点」
柔らかな娘の頬に頬擦りしたい気分ではあるが、娘の好意は俺に対してよりダラルロートに対しての方が強い。不快感を表明されかねないからぐっと堪える。
「魔素と魔力への理解の差が二点目だ。錬金術師どもの魔術師としての技量が低過ぎて話にならぬ。視えていない以上、盲目的に構造の鎖を操作しようとしても上手くは行かない。石を投げ続ければ的に当たる事もあろうが、魔術師として劣る者どもには投げた石が的に当たったかどうか知る手段さえない」
問われて答えているのだが、やはり娘はあまり関心を持っていないな。構造の鎖について質問して来ない。ダラルロートを気にしてばかりいる。
「三点目が異能の有無か。俺であっても異能については完璧ではない。
腐敗の異能が恩寵の全てを発揮するのは保持者が悪属性である場合のみだ。中庸の俺は悪だった頃ほどには強い毒を変成術で創れなくなっている。錬金術であっても同様だ」
毒に限って言えば、俺よりもダラルロートの方が質の高いものを製造できるかもしれないくらいだ。腐敗の権能は腐敗の邪神の第一の権能だと言われている。敵対者に毒と病と酸をもたらして滅ぼし、異能の保持者を手厚く護ってくれる。
「折に触れて婆ちゃんによく祈るがいい。敬虔な信仰を捧げる事で母さんも喜んでくれる」
「ミラーソードに言われるまでもない。錬金術にも異能が深く関わるのは曾御祖母さまだからと理解していいのか、ダラルロート」
「仰る通りです、デオマイア様。薬品、錬金術、或いは医術を司る神格は別個に存在しますが、影響を受けてはおられません
「なるほど、わかった」
俺は祖母に愛されている。祖母直属の司直として働く母にも愛されている。
大母への祈りを捧げるとよく理解できる。両肩の烙印が疼き、故郷と言うべき地獄の深海に魂を惹かれる感触を味合わされる。母がそうしたのだから俺もそうすべきだとミラーソードが言い、夫として永遠に傍にいろとイクタス・バーナバは言う。今はまだ、宙に吊られている。
「今日はサイ大師に水薬の三次試作だか四次試作を渡して来る」
「コルピティオ様を同伴なさいませ。皇都の屋敷の手入れをなさりたいと要望が上がっております」
「よかろう」
騎士団長マオ・チォンはリンミニア大君領ではなく、ミーセオ帝国に忠誠を誓った間諜なんだよ。更にはエマトキシーア三国連合へ情報を漏洩している形跡まである。奴が各所へ情報を送るのはそれなりに速い。いつ絞めてやってもいいんだが、誤情報を流させるのにも使っているそうでな。奴の生き肝はダラルロートが握っているようなものだ。
延命の水薬の出来にはまだ満足していないが、占術に長けたミーセオ帝国の守護神は頻繁に未来を占っている。占われたよりも遅くに報告しに行くと遅刻扱いされるってのは、ちと理不尽だと思わないか?
「デオマイアはリンミで勉学に励め。俺に教えられる事は菓子の作り方から錬金術の極意まで全て教えてやる」
「……うん」
そなたは俺の半身なのだから。デオマイアにそう言えば、素直げに小さく頷いた。蘇生して以来、娘は己の価値を高める事に強く執着している。まだ早いと言うのに化粧品に興味を示しているほどだ。
化粧品は錬金術の領分に重なっていなくはないから、ダラルロートが塗布している白粉全般は俺の手製ではある。試しに粉白粉、水白粉、煉り白粉、紙白粉と一通り拵えたら全部持って行った上、手順書の譲渡ではなく俺自身の製作による定期的な供給を要求して来た大君の神経は相当に太い。質が段違いにいいんだとさ。
使っているのが大君だと思うと適当でよくねえかなとは思ったんだが、成長したデオマイアが勧められる化粧品は何になるのか考えたら手を抜けねえと思い直した。
「いい子だ。何もなければ夕食はリンミで摂りたいが、サイ大師から何か指示があるかもしれぬゆえ約束はできぬ」
「できればコーティと一緒に帰って来てくれると嬉しい」
「そうか、努力するとしよう」
できれば、と控え目に求めた娘の深層心理を妻が読み取っている。切実な懇願だと。
下手な約束をしては破る事になりかねず約束こそできないが、意地でも日帰りでリンミに戻って来るとしよう。母はできない事を口にしない暗黒騎士だった。娘の望みには応えたいんだよ。偏愛の司直もアディケオの第三使徒としての務めを理解してくれようさ。
「愛しているよ、デオマイア」
「愛している、愛娘よ」
「ああ、愛している。父も、母も」
妻と俺の声が重なった。俺の膝の上でもそりと動いて向き直り、デオマイアは硬質の鱗で覆われた俺の頬に口付けをくれた。断固たる意志で以って夕刻までに全ての面倒事を始末すると決意し、俺は仕事へ出掛けた。




