261. 全ての母を喰らうもの
「恐れる事はない、ミラー。どう選んだ所で少しばかり順序が変わるだけだ」
カーリーが俺を解放して分離した時、どうしてか酷く寂しかった。鏡の剣が俺の手の中に残り、名残惜しげに別離の言葉を口にするまでは理解していなかった。鏡の剣の柄に括られているはずの魂護りの護符は見当たらないし、鎧姿のカーリーは精神体だ。実体のあるものは何も持っていない。
「じゃあね、お母さん」
「それほど長い別離ではあるまい」
「だといいけど」
ミラーソードが赤黒い目を見開いてばたつき、必死の形相で逃げ出そうとしたのも理解を後押しした。
「……冗談じゃないぞ!」
「しょうがないでしょ、かーちゃんのお墨付きを貰った専属の司直を決めないと他の司直が幾らでもしゃしゃり出て来るんだから。今のカーリタースの魂は破滅せずに存在できるギリギリのキワキワでしかないから、ダラちゃんが準備してくれてる生贄の処理と同時に喚ばないとならない」
創造の司直が細い触手を生やし、黒革で装丁された書物を一冊創造したのが見えた。凝視するまでもなく表題をカーリタースと読めた本の頁を、何の気なしに触手が捲る。
「下級司直としては相当ながら、儀式を経ても四権の司直にはなれませんでしょうネ」
「腐敗の司直は私の姿をしていると聞いているがな」
「あの魂は律する賢母に授けられた異能の所有者でしたからネ。腐敗に持って行かれた事は惜しく思いまス」
カーリーと創造の司直が何の話をしているのかは解っている。どうしてカーリーが俺に等しいほどの双頭と夏の異能を持たされているのかも。
「デオマイアちゃん、お母さんにお別れはしておいた方がいい」
鏡の声音は平静そのもので、何とも思ってはいないように聞こえた。そうではない事を離す間際にカーリーは教えてくれたけれど、悲しかった。祖父母はとっくに現世で結論を出した上で乗り込んで来ていて、俺に選択の余地はなかった。
「帰って来てくれるんだろうな、カーリー」
「デミ、私は我らが父にして母に試されるに過ぎない。
コルピティオは現世に残したゆえ、必要ならばあれを頼ってくれ」
帰って来れる気ではいないんだよな。うんともいやだとも言えなかった。
「ミラーソードか俺の力でどうにかなったら良かったのにな」
「デミはまだ幼いのだから強大化できる余地はあろうさ。私の願いを我らが神が聞き入れて下さるよう、神子と共に祈ってくれ」
「うん、カーリー」
もし腐敗の邪神が聞き入れてくれなかったら、俺はどうしたらいいんだろう。
愛しい祖母は顔を見せてはくれなかった。精神体なのだから兜は必要じゃないはずだが、カーリーも表情を隠したかったのだろうか。
「貴様も覚悟せよ、ミラーソード。四権の司直の決定を覆し得るのはただ我らが父にして母たる神のみだ」
「母さんを生贄にしなくてもいいじゃないか! 司直の言う事を聞くだけなら然程難しくはないだろう」
「四権の司直が信頼に足る味方であるならば私とてそうしたであろうな」
「だったら」
「デオマイアの為だ。我が子の為でもあるがな」
囁くような鏡の声は何の慰めにもならなかったけれど、喚くミラーソードの声よりかは耳を傾け易かった。
「かーちゃんの渾名の一つは全ての母を喰らうものだ。お母さんなら生贄としての意味が違って来る」
「価値があるって事か」
「器として使えるか試す程度には、だけどね」
鏡が魔術で描いた大掛かりな召喚陣は黒い光でできていて、創造の司直が出来栄えを褒める程度には難解な代物だった。
「召喚は問題ないでしょうネ。我らが母はお越しになりまス」
「用意した生贄が二千しかないのが心配なのよね。すぐに都合が付くのってリンミの住人だからさ」
「慈悲深き我らが母は飢えを満たされ、寛大なる御心で奏上を聞いて下さいまス」
「だといいけど」
何やら恭しくなった創造の司直は少なくとも儀式の妨害はしなかった。
経路が開いていたので軽く知識に触れてみると、数多くの生贄を捧げようとする神子の妨害などしようものなら邪神の決定的な不興を買うそうだ。だから食事にやって来る腐敗の邪神の露払いをする事はあるが、邪魔はしないんだと。
最初は召喚陣の端に跪いていた。魚のミラーソードは陣の内側に横たえられ、腐敗の邪神へ祈り始めた俺達の前で往生際悪くじたばたと跳ねていた。
「俺は嫌だぞ、こんな儀式で母さんを失うかもしれないなんて!」
「へたれたミラーは黙ってなさい。お母さんしか適役はいない。僕ら神子は司直にはなれないからね」
「ダラルロートだっているじゃないか」
「ダラちゃんは生憎と宦官で、誰の母親でもないのよね。彼は使徒には向いてるけど、かーちゃんの司直にはなれない」
ミラーソードの関心は殆どカーリーに向いていたように思う。カーリーはただ神への祈りを捧げ続けていたがね。
「頃合であろうな」
カーリーがそう言った時には召喚陣の半分ほどが淡い輝きで満たされていた。現世でコーティの手で殺められ、深海の離宮へと送り込まれた魂だそうだ。双頭の異能と権能を介し、神域で眠っているミラーソード本体を半ば乗っ取る形で地獄へ繋いでいると鏡が教えてくれた。
「愛していたよ、デミ」
「愛してる、カーリー」
「僕は?」
「そなたには現世で告げた。二度は言わぬ」
「そうね」
カーリーが召喚陣の内側へ踏み込んで行く前に交わした言葉は短かったけれど、短かったからこそ忘れる事もなかった。
心臓と肺に絡み付いていたコーティの一部が俺を絞め殺したのも同じ頃合だった。パイディオンは蘇生を試みようとしているらしいが、儀式の邪魔だから拒んでいる。善神の神血に冒された肉体はどの道捨てる必要があった。死んでみると精神体のみの存在とは頼りないものだ、肉体が恋しい。
魚のミラーソードは渋々と言った様子ながらも泳いで行き、カーリーと一緒に召喚陣の中心へ去って行った。母恋しさが勝ったものらしい。……まあ、いいさ。俺とてミラーソードよりもカーリーとコーティの方が好きだ。
「……鏡よ、俺は何と祈ればいいんだ」
「カーリタースを僕ら専属の司直にして、他の司直の介入は認めないで欲しい、でいいよ」
やがて途方もなく巨大なスライムの極一部が召喚陣から姿を見せ、陣内に在ったもの全てを喰らう様を見せ付けられたのは快い記憶ではない。俺には畏怖と不安の中で祈る事しか許されてはいなかった。
創造の司直に声を掛けられたミラーソードにしてもそうだったのだろう。
「ミラーソード殿下」
「貴様が創造の司直だな。知っている。知っているから自己紹介は要らん」
全身を白い鱗に覆われ、金銀混淆の鬣めいた頭髪を乱した六眼の者は怒りに震えていた。拉致された俺と、強制された眠りの間に全ての始末を付けられてしまった父のどちらがマシだったのかは知らない。知りたくもない。




