248. 父の失調
ここからデオマイアのターン
リンミの大君の館は居心地の良い住処だ。中でも庭園は一番いい。機嫌のいい風精達がリンミ湖から涼しい風を運んで来ては優しく通り抜けて行く。陽射しが強過ぎると思えば程好く曇らせようと雲の一団が馳せ参じても来てくれた。精霊は俺を愛してくれている。
父に指名された守役の指導は厳しいと評判だが、音を上げるような内容ではないと思う。母の胎の中にいた時点で大半の魔術を修めていた身にとって難しい課題などそう多くはない。狂土エムブレポの王族、デオマイア姫として大切に養育されている実感はある。
「近頃のミラーソードは様子がおかしい」
最後に父と話したのはいつだったのだろう。少なくとも仕事で―――ミーセオ帝国の守護神アディケオに仕える第三使徒としての務めだ―――皇都アディケオイアにいた春頃まではミラーソードだった。
今年は例年にない酷暑を迎えると占術師らが口を揃える夏が近付くに従って父らしさを急速に失い、今はどう話し掛けても母としての返事しか返さない。
夏と双頭の権能を司る双頭の狂魚神イクタス・バーナバが俺の母だ。父と母は現世に顕現している間、白い鱗で覆い尽くした一つの肉体を共有している。憐憫を感じさせる母の言葉と、気性の定まらない父の言葉を一つの口から同時に紡ぐ狂神だ。
「今は春から夏への季節の変わり目だ。保持する信奉を増大させたイクタス・バーナバに意識を呑まれたのであろうな」
「イクちゃんの神域で寝てるみたいよ。仕事のし過ぎでお疲れみたい」
祖母の膝の上は発達した大腿部の筋肉の厚みを感じて心地いい。預けている背から溶かされそうな低くて甘い声が好きだ。
一方、母をイクちゃんと気安く呼ぶ祖父の声はさほど父の身を案じていないように聞こえる。肉体を持たず鏡の剣に魂を封じている祖父からすれば、肉体を共有する二つの意志の均衡は他人事のようだ。
「過労なのか?」
「ミラーはエムブレポの全域を熱心にパトロールしてたんだけどさ。おつむのキャパシティを超えちゃってオーバーヒートしてるのよ。今は涼しいイクちゃんの神域でクールダウン中」
「もう少し解り易く言えないのか、鏡よ」
俺なりに翻訳して『あまり頭のよろしくない父が身の程を超えて仕事をした結果、熱を出して寝込み療養している』とは理解したがな。お喋りな祖父は世迷い言なのか隠された真実なのか解らぬ戯言を頻繁に言う。
「カーリー、ミラーソードが自力では起きられなくなっているなら起こしてやるべきではないのか?」
「デミもそう思うか」
愛称で祖母を呼べば、エムブレポの強い陽射しに連日晒されて鍛錬しても焼ける様子のない白い指先が眼前を通り過ぎた。口許へやって来た血の気の薄い白い手は小さめの銀の匙を摘み、掬い取ったクリームと薄切りにされた果実の層を揺らしている。カーリーの手の動きに逆らわず口の中で匙を舐め取り、控えめな一口分のケーキを味わう。
「今日のケーキの仕上がりはどう、デオマイアちゃん」
「甘さを抑えてチーズを強めに主張させたんだよな? これはこれでいい」
舌の上にチーズの味が残る感覚は良し悪しだな。俺にとっては少しだけ重い。
祖父は料理に強く執着している。肉体がなくては味見ができないからと祖母を厨房に立たせ、不可視の触手めいた念動力を操って調理する。本業は魔術師のはずだが、近頃の鏡は自身を料理人だと思い込んでいる疑いがある。
「僕の手元にあるデオマイアちゃん品評ノートによると『これはこれでいい』は何か問題がある時のコメントなんだけど、どうよお母さん」
「そなたの作る物の出来栄えは一定ではないからな。果実の甘みを強めてもよかったのではないか」
「うーん、苺をジャムかシロップ漬けにするべきだったかしら? 百点満点は遠いわね」
どう聞いても祖父の関心は父の失調ではなく、今日のケーキの出来栄えに対して向いている。そもそも、出来が安定しない原因は味が解っているのかいないのか実の所定かではない祖母に味見をさせながら作っている事だ。そっと嘆息し、使い慣れた術式で俺の感覚を鏡の剣へ繋いでやる。
「鏡も食べたらいいんだ」
「お母さん、一口ちょうだい。苺とチーズとゼリーを掬って」
「一口分でか」
「まだ手を付けてないケーキから掬っていいよ」
要求を受け、男の白い手が匙を一回り大きなものに持ち替えた。俺の口にはちょっとばかり大きい。口許に運ばれて来たケーキの断層を前にして意を決し、六つある目を閉じ精一杯口を開いて齧り付いた。歯が匙を噛んだのとほぼ同時に毛筆が紙の上を滑る音を聞いた。
「ちょっと、ダラちゃん。減点されるとデオマイアちゃんの気分がぐっとナイーブになるから止めてくれない」
「デオマイア様への礼法の指導は私の領分ですのでねえ」
考課表に減点をくれたのは左隣に立って俺達を見下ろしている長い黒髪を整えた宦官だ。絹服を帯で締めて着こなす中年男は庭園にいる誰よりも偉そうだ。リンミニア大君領を治める大君ダラルロート当人が俺の教師なのだから偉そうなのは仕方ない。
正直な所、ひと掬いが大き過ぎたケーキの味はよく解らん。チーズの重さが際立ってしまい、口の中がすっきりしない。一時的に感覚を共有させた祖父が不満げに叫ぶ。
「あぁ、チーズがくどいよ! お母さん、確か六種類味見して貰ったよね?」
「大人と子供の味覚の違いではないだろうか」
祖母は視線を逸らしている時の声を出してしまっているぞ。味見をさせられた時、解らないなりに適当にそれっぽい事を答えたんだろうな……。
言い合いを聞く間、茶を満たした杯が淑女の足取りめいてしずしずと宙を飛んで俺の前にやって来た。祖父の給仕さ、有り難く受け取って茶を愉しむ。毛筆の音は聞こえて来ない。世間的にはダラルロートは教師として厳しいのだろうが、理不尽ではない。
「うわあ、お茶の方が評価高い」
「美味いと言うのに。鏡は理想を高く持ち過ぎているのではないのか」
ケーキを食べようと重心を動かせば祖母の左腕が俺の腹部に吸い付き、白い右手が断片を掬った匙を運んで来た。恐ろしげな声音が頭上から託宣めいて降って来る。
「私の手ずから食物を摂るのは嫌か、デミ」
「ううん、カーリー。嫌じゃないよ、ちょうだい」
暗黒騎士の威圧を感じてなどいないように精一杯演じ、厳しい教師の指導の下で鍛えた一番可愛らしい孫娘の声で応える。俺は今、六つある眼を六つとも笑顔にできているだろうか。
結局、小さめに拵えられたケーキを二つ食べて茶を三杯飲み干すまでカーリーの膝の上から解放されなかった。愛していると囁かれれば愛していると迷いなく応えられるけれど、父の失調を真剣に案じているのはもしや俺だけなんだろうか。




