25. 契印
「さて、何からお話致しましょうねえ。
何しろミラーソード様が夕刻を過ぎてもリンミに御滞在になるのは異例の事。
話題にしたい事が些か多過ぎ、私も困ってしまいます」
嗅ぎ慣れない強い香気が満ちる宴席で供されているのはミーセオ料理だと言う。生を叩いた肉、焼いた肉、煮た肉、生魚、焼いた魚、煮た魚、酢漬けの魚、何とも不可思議な色合いのスープ、細工包丁を入れた野菜などと基本的な調理法こそ察せるものの、レシピとなると知識にない皿ばかり。素材に対する手の掛け方が尋常ではない上、彩の為だけに金箔を散らしている皿まである。市中では嗅いだ事のない、だが興味深い香りの混合物が俺の鼻腔を盛んに擽っている。口にすれば驚くほど美味い。
「ダラルロートめ……鏡より腕のいい料理人を抱えていやがる。許せない」
囁く鏡の声もきっちりと拾っているのだろう。ダラルロートの笑みが深まる。
「当家の料理長はミーセオ宮廷で宮廷料理長を勤めておりましたのでねえ。
聖餐の任を預かり、宮廷では現任の宮廷料理長と技量を競っておりました。何を召し上がってもきっとお楽しみ頂けようかと存じます」
「神に食べさせてたくらい美味いから覚悟しとけとまで言ってるよ、ミラー。
お家で待ってるお嬢さんの為にお土産を包んで貰おうね」
鏡の言葉にはっとさせられる。そうだ、俺は家に彼女を残して来ている。リンミには長距離転移で毎日足を運んでいるが、これほど帰りが遅くなった事はない。
「お嬢さんの事は心配しなさんな。彼女の時間はとてもゆったりとしたものだ。
人間的な感覚に囚われているとお嬢さんとの感性の違いに苦しむ事になるぞ。
今晩はダラルロートの接待を受けてから帰りなさい。宿泊まではしなくていい」
鏡が静かだが有無を言わせぬ口調で気持ちを逸らせた俺を嗜める。明らかにダラルロートにも聞かせている。……鏡は一体どこまで俺の事をダラルロートに開示したのだろう?
感情の混乱から料理の味が解らなくなる。それでも美味と言う漠然とした印象と、是非ともまた食べたいと言う渇望の爪跡を容赦なく残す程度には美味い皿ばかりが続く。司教はどこか青い顔をしつつも老齢の割に健啖であり、魔女は育ちの悪さを大いに披露しつつも食事に専念し遠慮ない。ダラルロートは謎だ、視界内にいると言うのに何をどの程度食したのか見て取れない。何らかの欺瞞占術に俺が引っ掛かっている……?
「そうですねえ、使徒の話でも致しましょうか」
そうだ、ダラルロートは自身を二柱の使徒だったと言った。俺の中で得心が行かぬ点だ。
「司教殿はお嫌でしょうがまあ、お聞きなさい。
かつて私はアガシアに祝福された第二使徒を務めておりました。
同時に、アディケオと契約した第八使徒でもありました。アガソス宮廷内の間諜として」
「そんな事が可能なのか?」
「私が実例です、ミラーソード様。
アガシアに美の権能の恩寵を授けられた身のままアディケオとも契約し、不正の権能の恩寵にも浴しました。
私のように強欲ですと小神一柱から受ける恩寵のみではどうにも不満でしてねえ」
「……本当に不遜な奴じゃの……」
「大事な話だからちゃんと聞きなさい、ミラー。後で試験に出すよ」
司教と鏡の混ぜっ返しがなければ俺とて腰を折るような質問はしない。
「小神の契印を奪い取って強大化した神であれば強力な恩寵を授けて下さるのですがね。
アガシアはこの地域ではおそらく最弱の神です、ミラーソード様。
アガシアの使徒に授けられる恩寵は芸術の守護者としての面が強い。私がミーセオ料理を奨励し、保護しているようにねえ。およそ戦争向きではございません」
「最弱とまで言うのか。小神とは言え契印を守る王国は長く健在であろう?」
「ええ、アガソス正国の王家がアガシアの契印を守って来ました。
可憐にして美しくたおやかなるアガシアを、アガソス正国は広大な面積と人口を擁する国土によって守護して来ました。
ですが今冬を迎える前にアガソス王家は絶えましょう。ミラーソード様のお力によって」
小さく肩を竦める。アガソスが冬までは持たない原因はリンミであり、より根源的には俺だ。不可思議なスープを一口味わい、何が溶け込んでいるのかを感じようとする。
「ミーセオ皇帝陛下は人民を養う為のより広大な国土を望んでおります。守護神もまた。
無論、その身の醜悪を覆い隠すアディケオはアガシアの契印の奪取を欲しておりますが……」
ダラルロートが笑う。
「契印を奪取した者が神であれば、権能の奪取が可能です。より強い神になります。
契印を奪取した者が定命の者であれば、神その人に挑み討ち果たす事で昇神致します」
「はい、試験に出します! ここだよ!」
鏡の声に聞こえぬ素振りができるダラルロートは大した奴だと思う。
……魔女めは聞いているのだろうな。俺が視線を向けても料理に夢中のようだが。躾に苦労しそうだ。
「俺がアガシアに挑んで勝機はあると思うか」
「アディケオの横槍と強奪を防ぎ、私をお連れ下さるならば勝機はあろうかと。
アディケオは第三使徒に昇格させましたが、我が主はミラーソード様でございます」
「だといいがな」
神を侮るつもりはない。俺は強き神の強大さの一部を知っている。……より正確には俺の元になった血が、と言うべきか。
「俺としては美の権能など要らぬのだが」
「まずは人から神にならねば人が神としての階を昇る事は叶わないのですよ。
アガシアは理想的な足掛かりでございます、ミラーソード様」
神殺しを勧めるダラルロートからは使徒らしい気配が全くしない。
不正の権能の恩寵だろうか。食事を進めているはずの手元が頭に入って来ないのも、おそらくそうだろう。さて、この男を制圧している感触はどこまでが真なのだろうな。




