246. 生き餌
結局、サイ大師が夏の都なりリンミへ引き揚げてもよいと言ってくれたのは停戦交渉の内容がほぼ確定して更に半月も後の事だった。
俺は義務的に腐敗の種子を撒き、身分の低い女については買い上げた上で用意させた住まいに囲い込んだ。後宮なんていいもんじゃない、俺からしたら監禁場所だ。不必要に贅沢をさせるつもりはないから多くの予算は与えていない。出産まで母体の面倒を見て、生まれた子を見てから処遇を判断する予定でいる。
俺の行いはアディケオとの契約に沿ったものだから妻は文句こそ言わないが、愛しているのはそなただと言い続けている。囲う女を増やす度に妻の値踏みするような視線が注がれ、大抵の女は狂神の注視に耐えられない。監禁場所へはあまり足を向ける気にならない。
ダラルロートは忙しい素振りを演じ続けようとしたが、アステールの協力を取り付けたデオマイアがスコトスからも手を回させて暇を作らせた。娘は嬉しそうにダラルロートを従えて劇場へ出掛けて行ったよ。
帰って来た時こそ大君は平静を装っていたが、翌日の午前は執務の予定を撤回して自室から出て来なかったとワバルロートから報告があった。化け物じみた大君にも人がましい部分はあるのかね。どうだった、と聞いても何一つ答えなかったがね。
「不運避けの護符の受けはどうだったよ? 大君は素直じゃねえからそなたに皮肉の一つも言ったんじゃないか」
「いいや? ダラルロートからは礼を言われたぞ。リンミに帰ったら何か返礼の品をくれるそうだ」
「へえ、大君もそなたには多少は素直なのかね。いい事だ」
二人が観劇に行っていた劇の題材になったミーセオニーズのチィエン・フーって男、ダラルロートなんだけどさ。不運な身の上でアディケオの宿敵アガシアを討ったミーセオ帝国の英雄だ。
デオマイアに選ばせた石に俺が聖金で細工し、娘が魔力を付与して不運避けの護符を作ったんだよ。効力を発揮すると破損する使い切り型の護符だが、飾った石の数と同じ回数だけ好ましくない不運や不調を退ける。金剛石の粒を一つと紅玉の粒を六つ埋め込んだ。ダラルロートに持たせると一年と保たないのではないかとは思っている。それとも護符ではどうもならん水準の不運にしか見舞われず、護符は欠けないだろうか。ちょっとした好奇心はある。
ニュムフィオスに仕える第三使徒トレイスはエマトキシーア三国連合の大使として皇都に駐在すると聞き、俺は個人的に招待状を書いた。返還されたシフィカの食事や住まいについて質問したい事があるから会食でもしないか、と誘えばトレイス当人が文字通り屋敷の庭へ飛んで来た。蜘蛛が血相を変えて報告に来たから何事かと思ったわ。
「ミラーソード様、こんにちは。お手紙を拝読して飛んで参りました」
「よう、聖騎士伯殿。使徒本人がすっ飛んで来るとはエルガシーアの礼法はどうなっているんだ」
「善は急げと申しますし」
「帝国内で適用されるのかね、その諺。まあいいや、今日は前回よりは持て成せると思う」
ヤン・グァンに指示してニュムフィオスとシフィカが好むであろうものを調べさせたからな。聖騎士伯と呼び掛けたのはトレイスの役職だよ。一応、今後は帝国として連合とある程度の付き合いをするそうだ。他国の大使に対して呼び捨ては不味かろう。
蜂の複眼が俺の真意を伺うように感じられたから、俺も六眼で見返してやった。傍目には友好的な関係に見えるんだろうか。
「ミラーソード様が手ずから歓迎して下さるとは嬉しい事ですね」
「誰の茶坊主だろうと務める自信はあるのでな。前回のような突然の訪問でさえなければ相応の事はする」
蜂を相手に蜂蜜を振舞うのは正直どうなんだろうと思ったが、ヤン・グァンが言った通りトレイスの受けは良かった。食器と匙の中間めいたものを創り出して取り分けてやれば、東屋で吸っていた林檎よりも強い関心を示された。シフィカはある種の蘭の香りを好むと聞き、妻に召喚して貰って鉢を置いてもいるよ。
「同胞を身近で使われる判断をなさったのは意外でしたね」
「意外かね? 術理に依存せず高速で飛行できるのだから高給取りになれように」
俺自身はアガソスの流儀で淹れた茶に蜂蜜を混ぜて飲んでいる。使徒相手に毒物は通用しない。混ぜ物などしてはいないさ。
「ミラーソード様の人物評は語り手によって触れ幅が大きいですからね。寛大であるとも、無慈悲であるとも聞こえて来る。
お話の中で『魔剣ミラーソード』は狂気的な悪しき魂として大仰に演じられていますが、貴殿の一面ではあるのでしょう?」
「劇を観たのか。大半の描写は虚構だが、全くの出鱈目ばかりではなかったな」
「ええ。我が神の子となった者らの処遇と併せて大変興味深く拝見させて頂きました」
やはり見ていやがったか。シフィカはニュムフィオスの眷属だ。眷属が見聞きした物事を神たるニュムフィオスが知っているのはおかしな事ではない。
「よろしいのですか? 鮮血の君と我が神の耳目がリンミニア領内に存在する形になりますけれど」
「何匹か使って試したんだがな。無私の影響を完全には抑制できなかった」
幼虫を殺して料理した後、肉体を用いる事なく蘇生してみてもダメだった。ニュムフィオスの無私を一度受け入れてしまった魂はシフィカとしてしか蘇らなかったよ。初めて見るでかい蜂の子を料理してみたかっただけなのは父くらいだ。……多分な。
「面倒臭え事しやがって」
「命喰らいの魔性であるミラーソード様を取り込める可能性があるならば、彼らは必要な犠牲でしたよね」
トレイスは悪事を働いたとは全く考えていないようだ。気楽げな口調のまま美味そうに蜜を吸っている。
『ああ、そうそう。ミラーとお母さんは虫になりたくないなら無私に侵されたものに対する命喰らいは止めときなさい』
『なんか不味いのかい』
『無私の権能って言ってるけど、小権能を聞いた限りじゃ実態は蜂の権能でしょ?
お母さんもノモスケファーラがどうして協力の小権能を目当てにニュムフィオスの契印を獲ってないのか、本当の所を知ってるんじゃない?』
パイディオンやらニュムフィオスがノモスケファーラに庇護され、滅ぼされていない理由なんだとさ。友好的だから、忠実だからと言った心温まる理由は何一つなくて、権能の持つ不利益が大き過ぎるから契印を欲していないのだろうと父は言った。
『毒のあるお魚や茸みたいなもんよ。神に効く毒なんてそう多くないけどね』
パイディオンの持つ幼年の権能は幼子を護る一方で成長を阻む。
ニュムフィオスの持つ無私の権能は蜂になっちまう。そういう一面を指して父は神に効く毒だと言った。消化不良を起こして異能が魂に宿ってしまったら蜂になるぞ、と。
「召し上がった一匹だけでは同族意識さえ持って頂けなかった様子なのがとても残念です」
「当たり前だ」
「重度汚染者を十匹も召し上がって頂ければ染まって下さったでしょうに」
わざわざ食べ頃の幼虫の状態で持って来た真意なんだろうよ。俺に喰って欲しかった訳だ。不自然に成長具合が揃っていたもんな? クラーゾーの蒐集の大権能には停滞の小権能がある。
シャンディの母を救ってやる必要がなかったなら、俺は宮中で十匹とも命を喰らっていたかもしれない。ニュムフィオスの命令を受けて反抗する前に死なせてやるのがせめてもの情けだ、とでも言い放ってな……。悪に傾いた気分の日ならそう言う事をしたかもしれん。
「策を考えたのはオクロス様であって私じゃないんですけどね」
「クラーゾーの第一使徒に悪事の責任を擦り付ける気か」
「いやあ、片棒はきっちり担がされておりますからねえ。共犯ですよ、共犯」
トレイスめは本当に聖騎士なのかね。暗黒騎士だと言われても驚くに値しない精神性だと思う。そのせいか妙な親しみを感じてはいる。会った事はないが、オクロスは万話の語り手クラーゾーの第一使徒でエマトキシーア三国連合の摂政だ。
「彼らも元がアガソニアンとは言え同胞です。
もしミラーソード様が渇いた水源を満たして下さるなら后蜂も御紹介致しますよ。使役される度量がおありなら繁殖も手掛けてみません?」
「雨乞いならアディケオに頼めと言っているだろうに」
言動が善とは思えねえぞ、こいつ。『帝国側に取り入りたいです』とこうも明け透けに言うのか。
「そもそも彼らを我が国に入国させたのはスタウロス公爵とティリンス侯爵ですし」
トレイスは何て事なさそうに言いやがった。話を促せば三国連合が帝国と争っていた大元の原因はアステールとエピスタタらしい。
「今は亡きアガソス正国との契約でしてね。我が神は離散したアガソニアンに救いの手を差し伸べる事になっておりました」
アガシアは正しき善、ニュムフィオスも正しき善だ。同盟関係が他よりも強固だったとしてもおかしくはない。
「ティリンス侯爵はアガソス滅亡戦争終結の半月ほど前、ティリンス侯爵軍の兵の半数近くを北へ送られました。御存知でした? 帝国と戦っていた我々の主力部隊の中核は元ティリンス侯爵軍の兵士達ですよ」
第七使徒ホン・ダオが司令官だった間、北部戦線はゲリラ戦を繰り返されて芳しい戦況ではなかったと聞いちゃいたけどよ。ティリンス侯爵軍ならそりゃゲリラ戦が得意だろうよ。何しろ鉄筋入りクソッタレのエピスタタだ、確実に碌でもない訓練を積ませている。
「元スタウロス公爵軍の皆様はアガソニアン難民の脱出を支援しています。プロバトンとミーセオの奴隷商人に攫われないよう力を尽くしておられる」
トレイスの話の真偽はともかく、アステールを問い詰める必要は感じた。六眼を細めて蜂の面構えを見れば、強靭そうな顎がどこか不遜にさえ見える。
「私はね、ミラーソード様。半年以上も要した儲からないお仕事がようやく終わりそうで嬉しいんですよ」
「駐在大使にしては随分と内情をぶちまけている気がするが大丈夫なのかい」
「我々はリンミニアの内情を知りたい放題ですし。どうせなら帝国で有数の富豪でもあるミラーソード様と仲良くさせて頂きたいじゃありませんか。ささやかな善意ですよ」
妻が睨んでもトレイスは平気そうにしている。こいつ、エピスタタの同類なんじゃねえのか? 器を空にしたトレイスが妙に満足げに見えて腹立たしい。殺すより利用したい状況なのも腹の奥に溜まるものがある。
「次は私が会食にお誘いしますよ。我が領内では自慢の蜂蜜酒よりも蜜そのままの方がいいと言う者ばかりで寂しいですから」
「互いの都合が合えばな。美味い食材の輸入なら話に応じない事もない」
賢しい蜂めを蜂蜜か酒に漬け込んで食ってやりたいくらいだが、やっちまうと俺が無私の影響を受けるんだろうな……。嫌な生き餌だよ、全く。俺が蜂にされなかった事はシャンディの功績として数えておいてやるよ。




